あれはいつの事だっただろう。
もう、長く前のことだったような気がする。
部屋の中に、たった二人きり。
二人共無言のまま、その誓いが終わる時を待っていた。
私の掌には、握り締められた一通の手紙。
正確な言い方をすれば、それは『二通目の手紙』だった。
宛名も、差出人も、切手もないその手紙には、ただ今あるだけの状況が淡々と並んでいるはずだ。
そしてその差出人はもうすぐ現れる。
この風の中を切って、やってくるはずだった。
目の前の彼が、少し微睡みからうなされて目をうっすらと開く。
「……………」
無言のまま、見つめあって。
……違う。視線を合わせただけ。
彼は、私の顔を見て笑った。
……けど、私はその時決して笑ってはいなかった。
多分、笑ってなどいない。
「………大丈夫だよ」
誰に言ったのか、私も分からない。
ただそっと、彼の髪に振れてみる。
汗ばんで、じっとりと滲んだ肌にかかる前髪をかきあげて、そっと撫で続ける。
彼の瞳が再び深い微睡みに落ちると、入り口の扉をノックする音が、室内に木霊した。
『願い』は、いつかきっと終わる。
いつも、いつでも頭の隅に、おぼろげにある情景。
それは………『別れ』。
全てを終わらせる別れ。
夢は、終わってしまった。
−7−
時間は、少し遡る。
外からは窓を叩く風の音だけがぴたりと止んだ。
今、リュベリが放った一言の残響音だけが、その室内には残っていた。
ぼんやりとした明かりの灯る部屋の中では誰も身動き一つしない。数分前までは十数人がいたが、リカルドが逃走すると同時に所定の位置へ散っていったため、今この中には四人しかいない。
中央には、二人の警官に両肩を荒々しく取り押さえられたシモンヌが膝立ちの状態でリュベリをにらみつけていた。その髪はさんざばらにほどけ、寝間着にしている服も一番上のボタンが一つ取れている。
「……離せ、といったのが聞こえなかったのか」
リュベリがもう一度、先程のセリフを繰り返した。
戸惑い気味に、喧噪に気の昂ぶっていた警官達はその幼い肩から手を離す。肩で一度息を吐いて、シモンヌが煤ちゃけた床の上にへたり込む。ただ、その恐ろしいまでの殺意を剥き出しにした「眼」を敵と認知した周囲に注ぎ続けながら。
リュベリはその眼に苦い懐かしさを思い出しながら、言葉を繋いだ。
「……部下が無礼を働いた。まずは非礼を詫びよう」
機械的な、儀式的な言葉に敵愾心は強まる。シモンヌは立とうともせず、眼だけで何かを訴えていた。
「リカルドの行方を知りたい。知っていることがあれば、教えてほしい」
「教えることなんか何もない。帰って」
彼女の手は小刻みに震え、食いしばる歯に、怒りとやるせなさだけが同居していた。
彼女が放つきっぱりとした言葉が気丈を振舞っただけの声であることは、リュベリには容易に想像がついた。
別に、ここで彼女から情報が割り出せなくても、包囲網は待ち伏せされている警官隊さえ突破されなければこの小規模な都市の全てを網羅している。
こんな小娘にいつまでもリュベリ達が付き合ういわれはないとも言えた。
「……憎いか」
リュベリが、口走ったその言葉は自分でも意外だった。
虚をついて出た言葉に、シモンヌは少なからず驚いたようだったが、震える唇をきっと真横へ結ぶと、きっぱりと言う。
「憎い。アンタ達を殺したいほど、憎い」
「………昔のリカルドもそんな眼をしてたよ」
ひどく懐かしむように、リュベリは呟いた。
「私は、そんな彼を知らない。彼が何をしていたか、彼が死ぬ前まで知らなかった。それでも、あなた達は私からリカルドを奪った。いずれ彼が捕まってしまっても、私は必ずあなた達から彼を奪い返す。私の兄を………『リカルド』を」
その決意には微塵も迷いはない。
澄んでいること故に、危険な瞳。
彼女にもその瞳の光が宿っている。
リュベリはその瞳を反らすことなく、真正面から受けとめた。
一年前に感じたものとは明らかに脆く、そしてか弱かった。あの力強い瞳には、幾度となく出し抜かれ、嘲り笑われてしまった。
リュベリは彼を生かしてしまったことをこの一年、ずっと後悔していた。バムジェイと共に三重の包囲を敷いて臨んだ作戦が失敗した後、自身は責任を追及されてフィンデルロードへの移転が決定した。
だが、バムジェイは………。
彼は一年もの間、リュベリの知らない苦悩を苦しみぬいた挙げ句に再び現れた亡霊の様な男に翻弄され続けている。必死になって欠けてしまった何かを探すような、その姿は十五年来の友として、哀れに見えて仕方なかった。
この包囲作戦において彼を呼んだのは、組織の権限を濫用した独断だった。たとえ彼が望んでいなくても、これは友として出来うる限りの情けだった。
大きく冷たい空気を肺に吸い込み、リュベリは目の前の彼女に言った。
「そのために、たとえ大勢の人が傷ついてもか?」
「……」
「殺していないとは言え、アイツは前の街で警官を幾度殴り倒し、銃弾を浴びせた。自分のエゴのために、他人がどれほどの犠牲を払ったのか、考えたことがあるか。
ある者はもう膝が使い物にならない……またある者は左の肩をやってしまった………。ヤツは彼らの人生を目茶苦茶にしたんだよ………バムジェイだってそうだ!」
リュベリは年甲斐もなく、憤慨した。
通常ならその頭があいまって誰かが噴き出したかもしれないが、その顔は見る者さえも悲痛にさせた。
「アイツはリカルドが現れてから目の色を変えて捜査を開始した………事件で捕まらなくても、一番に犯行現場に戻り、血眼になって情報を集め、次の犯行を防ごうとした。アイツが情報収集に使ったノートは四年で十冊を超えたんだ………それほどアイツは全てをリカルドに捧げてきたんだ!」
舞台となる空間はしんと静まり返り、ただその悲痛な昔話が紡がれていた。
………ただ一人、少女の頭の中を除いては。
彼女は息の荒くなったリュベリを突き飛ばすように、言った。
「………それじゃ、あなた達はリカルドがなぜ盗みをするのか、考えたことがある?
明日死ぬかも知れない無力な子供を助けるためにやむを得ずすることが、そんなにいけないの?
それとも、そんなのは金持ちしかしちゃいけないの?
無力なら、死ぬしか方法ないの?
泥棒って言われても、それでも真に生きたいって思ってる人達を救わなきゃいけないって考えた人のこと、考えたことある?」
「それは、偽善だ」
「偽善?それを救えないままで見過ごしてしまう人々の方がよほど偽善じゃない!」
叫びに近い声が、室内に張り詰めた。シモンヌは泣いていた。張っていた虚勢がぼろぼろと崩れ落ち、言葉を発する度に涙がこぼれ落ちる。
シモンヌを除く誰もが、反論できない問題の次声を待った。
「………」
「情を法で縛るなとは言わない………けど、法で情は縛り切れない」
置いていかれた少女。
帰りを待つ刑事。
同じ、残された者として、ただ睨み合う。
同じなのに、どこで立場を違えてしまったのだろう。
………最初から?
それとも………どこだろう?
「………俺は戻る。ここで待っていても仕方がない。まだやることもあるからな」
誰にともなく、リュベリはその場に向かって吐き捨てた。
振り返ると、急に彼の胸に何かこみあげるものがやってきた。
職務として、理性でそれを押さえ込む。
「現場に戻ってくる可能性も考えて、お前らはここへ残ってこの女を見張っていろ。くれぐれもこんなガキには手を出すなよ。これに何かあった場合はお前等の全責任だ、いいな」
少々抑圧的な態度でとばっちりを食らった二人は気まずそうな顔をして、それを見合わせた。
リュベリは、立ち上がらず顔を伏せてしまった少女をもう一度振り返ってみた。
怪盗と一年を過ごした少女。
その月日がどんな日であったにせよ、それは今日で終わりにする。
リュベリは、そう決意すると静かにその入り口の戸を閉めた。
雪の止む気配のない空の闇を一瞥し、彼はゆっくりと目的地へと歩き出した。