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 未だ冷たい風が、中途半端に伸びたその深い茶色の髪を揺らした。
 遅い北国の春の気候は色合いだけがきれいで暖か味と言うものにはまだ無縁だ。足下を風と共に撫でていく雑草の色合いもなんとなく緑がかってきてはいるものの、色に暖か味自体を問うほどの緑はない。
 少年は、そんな雑草が周りに伸びる墓の前に一人立ち尽くしていた。ただ遠目に目の前の墓を見るような虚ろな眼のまま、白木で打ち据えられた十字架をぼんやりと眺めている。
「……………」
 かくも、儚い。
 どんな知り合いでも、旧知でも、死に際を看取っていない人の死などこんなものか。
 少年が駆けつけた時とすれ違いに、男は息を引き取ったと死に際をただ一人看取った少女は言っていたが、未だに少年には墓の下で眠っている男が死んだなどとは信じられなかった。
 心の底面になにかもやのかかったものが欝積し、鮮やかに晴れた空の下を塗りつぶす。
 一度、そのもやを吐き出すかのように、息を吐く。
 少年は眠るように目を閉じ、実感の沸かない死者へ向けて静かに祈りを捧げた。
「………」
 人外の者達のささやく声に耳を委ねながら、少年はただ祈り続ける。
 しばらくして少年が眼を開くと、すぐ隣に妙な気配を感じた。
 昨夜出会ったばかりの少女が一張羅で持っていたベージュのロングコートの腰のあたりを、頼りなさげにつかんでいる。
「………何か、用か?」
「……お昼」
 言われてみると、すっ飛んできたから昨日の昼から何も食べていない。間違いなく腹は空いていた。
「いらない」
 しばらく思案したが、少年はその要求に近い申し出を断ることにした。
「俺は、今日の午後発のどれかで帰る。ヤツの荷物は、出来る限り引き取りたい」
「…………」
 少女は何も言わず、ただ口を真一文字に結んで少年を睨み上げた。
「なんだよ」
 抑揚のない声で、少年は少女に向けて発する。
「………」
「それ以外にないなら、もう少しこのままでいさせてくれ」
 取り付く島のない雰囲気に少女は伏し目になり、黙った。
 しばらく、無言の祈りと沈黙が続いた。
 少年は予想通りの展開に彼女の様子を一瞥して、懐からボロボロの封筒を出した。
「そう言えば、これはアンタが書いたのか?」
 伏していた目が、その封筒へ注がれる。
「え………なんで、わかったの?」
「言っていたのを書き写したんだろうけど、アイツにしてはやたら奇麗な字なんでね。だけど、文法の間違いが半端じゃない。単語だけで理解できたからいいものの、あんな手紙は二度と読みたかないね」
 少女顔の端がむっ、としたのが少年にはありありと見て取れた。
「………書けって言われて、初めて書いたんだもん」
「アイツの差し金か」
 自分で書けない程憔悴していた、と言うわけか。
 少年の苦笑した顔を見て、少女が続けた。
「本当は、自分で書けたと思うんだ」
「………?」
 少年は見透かされた気がして少女の方を見た。
「あの人、「書いたことねーだろ」って無理矢理書かせたんだ。文法はあの人に習ったんだよ」
「………走り書き程度にしか使わねえからな」
 自分でフォローしてみたが、むなしくなるだけだった。
「あの人、最期の最期までアナタのこと言ってた」
「どうせロクな友達もいねぇ馬鹿野郎だって言ってたんだろ?」
 少女が目を丸くする。
「……」
「………どうしてわかったの?」
「そりゃ、口癖だったからな」
 吐き捨てるように、息を吐く。
「それに加えてロクな人生も送ってなかったのが、ヤツだ」
「………」
「自分を救えないくせに、他人を救おうなんてバカもいいところなんだよ」
 少年の、偽らない本心だった。
 ここまできたのは、勝手に自分を呼び寄せておきながら間一髪で死んだ、兄を恨むだけの怒り。悲しみなど、この場にはない。
 少なくとも少年は、そんなものは持ち合わせていなかった。
 少年は、右手に掴んでいた封筒に前に突き出して反対の端に左手をかけた。
「……あ」
 そのまま左手と右手に力を込めて、封筒を二つに破った。同じ動作を繰り返して、封筒を細切れにしていく。
「…………」
 千切れなくなるまでちぎった後、少年はその紙屑を空に翳した。
 冷たい風が、その手から紙屑を解き放つ。
 ふわりと浮き上がった紙が、影響を受けて地に落ちる紙が、それぞれ無機質な音を立てながら掌を飛び出す。
 手品師が、その手から鳥を出すような、そんな光景だった。
「……………」
 しばらくしてそれも終わり、少年が手を翳すのをやめた。
「………ヤツさ」
 ぽつりと、少年が少女に言った。
「最後に……何か言ってなかったか?」
「あの人ね………私に合う前の事、最後の最後までなんにも言わないで、死んだの。だから、私彼が何をしていたのか、今まで知らなかった」
「…………」
「でも、さっきあなたが言っていたのが本当なら、救われた人の中の、多分私が最後に救われたんだね」
「……何か救われたのか」
「願いを叶えてくれた。アナタなら大丈夫」
 そう言うと、少女はもう一通の封筒を取り出した。
 それは、少年にとって『兄』からの、直筆で書かれた正真正銘唯一の遺品だった。