雪のちらつく、ばらけてざわめいた空気の中のはずなのに、風の中で一瞬、そこだけがぽっかりと全てを掻き消してしまったような感覚に陥る。
全ての振動や感覚が消え、視界のみが残る世界。
ティールはその中でそんな幻想に恐怖を覚え、一瞬でその場から一歩退いた。
とたんに、ばらけた空気の中で聴覚と感覚が戻ってきた。
「……………」
だいぶ、動悸が荒くなっていた。
じっとりと汗ばむ背中が、気持ち悪い。
対照的にその汗に心地よいくらいだった冷気は、先程から「冷たさ」にそのレベルを上げている。おそらく、汗によって体が冷えてきたのだろうが、これ以上長く外にいるのはさすがに自殺行為に等しい。
これ以上の攪乱はこちらにとっても無益に等しい。
今夜動員されている警官達も、何かしらの疲れを溜めた頃だろう。
ティールはそこまで考えると、まだ一発も実弾を放っていない銃を懐にしまい、逃走の果てに再び上り詰めた屋根の上から、平屋の屋根づたいを見下ろした。
いくつかぽつぽつと漆黒の闇の中に灯る明かりのその先にあるのは、数時間前に逃げ出してきた貧民街と呼ばれる住宅密集地だ。
「…………」
バムジェイとリュベリはおそらく、街の出入り口を固めているはずだ。東に大きな通用門が一つ、西に小さな門が四つほど。後は普段は使われていないような出入り口も塞がれているだろう。大きな街へ続くのはその二つで、北と南にも一応出口らしきものはあるが徒歩で隣町まで歩くのはできないことはないがまず不可能な距離だ。
後は、固めた街の中をローラー作戦で駆逐して行けばいい。門を強行突破すれば、そこに一気に集結する手筈にでもなっているのだろう。
その位は、ティールの頭の中には入っている。現に、それを考えてできるだけむやみやたらに動いたりはしていないし、路地で出くわしても困るのでなるべくこうして動きやすい位置の屋根の上に上っているのもその理由の一つだ。雪が多少のネックだが、落ちて足を折る確率が高くても銃撃戦よりは死ぬ確率は低い。
深く、一息。
ティールは再び思案した。
目指す建物まで、まだかなりある。
途中大通りが一本流れており、屋根の上を伝っていくことは出来ない。となれば、下へ降りての突破しかありえないが、再び屋根に昇ろうとすれば不審な足跡を残す羽目にもなる。
だからといって大通りを普通に通過していけば、三倍程度回り道になる上、多少は手勢のいそうな教会前を経由しなければならない。
「………」
だからといって、これ以上の上策も無い。
これから彼がやろうとしていることは、決して悟られてはならないことだった。途中で邪魔が入れば、間違いなくその人間ごと殺してしまう可能性のほうが高い。邪魔が入るのは嫌だし、関係ない人を巻き込むだけの余裕はティールにもない。
「………」
ひとしきり思案した後、ティールはその建物を路地裏から降り、教会へ向かって直進した。
できるだけ目立たない路地を選び、そこから大通りの薄くなった足跡に再び深い跡を刻んでゆく。
一度だけ、後ろを見るが、コレといって問題は無い。尾行されているおそれもあったが、そんなことを気にしてるだけの余裕は無い。尾行が、目的を果たされるまで尾行であればよい。
大通りを右折し、教会前まで来た。
雪の降る日は、特に荘厳にも見えたりもする堅牢な石造り。建物の奥の方ではもう深夜も終わりにさしかかろうという頃なのに、まだちらほらと明かりが灯っていた。
「………」
「お久しぶりです、リカルドさん」
横目で通り過ぎようとしたその時、背後で若い男の声がした。
慌てて振り向き、間合いを取ろうと………。
刹那、足下で銃弾が弾けてティールはその動作をぴたりと止めた。
「ッ!」
「っと、動かないでください。動いたら次は『狙います』から」
声の主は口調の割に残酷だった。煙をあげた銃口を躊躇いなくティールへと向ける。その態度には、一瞬の隙さえも与えない。懐へ突っ込んだ手を外に出したところで、ティールの動きが再び止まった。
そこには、警察のエンブレムをつけた、とっぽい兄ちゃんが立っていた。少なくとも、ティールがこの一年で見た警察の面子とは明らかに別モノだ。こんなにしっかりした警官の噂は、聞いたこともない。
しかし、目の前の彼は「久しぶり」と言った。
「………どこかで会ったことが、あったかな?」
自分が彼を知らない理由は、一つだ。
内心の動揺を抑えながら、ティールは冷静を装って言い返した。
「ええ、まあ。あの時は名乗れませんでしたから………リーデンと言います。多少ですが、アナタにはドートネルでお世話になりました」
「あの腐った田舎街か。あんまり寄ってないから分からないな」
リーデンの両手が、グリップを強く握り締めた。
「それより、アンタは命令から逸脱しているな?」
「その様子だと、大体こちら側の手の内は読んでいるようですね」
「だてに4年もあいつ等と戦ってねえよ」
「……バムジェイさんには申し訳ないですが、独断行動をとらせてもらいました。まぁ、どちらにせよリュベリ警部補には元々許可を得ていましたから、命令違反ということにはならないはずです」
「そうか。あのタヌキオヤジを出し抜いた、ってわけか。そうすればアンタは警戒されずに別のルートからこちらを追う事が出来る」
互いに、口の端が歪んだ。
「ウチでは敗走資金を調達していたらしいですね。エンシュタルテでバムジェイさん達に追いつめられた挙げ句、ウチへ駆け込まれた時には正直身の毛がよだちましたよ」
しかし、口調とは裏腹に青年は嬉しそうだった。
「アナタの相棒はレイケルベルで捕まりましたが、アナタだけがようとして行方知れずだった………この一年、私も捜しましたよ………妻の仇をね」
撃鉄が、手動で上がった。銃のタイプとしては、古い代物らしい。
銃口は心なしか持ち手の感情により震えている。
「怪盗が最後に犯した罪が、『殺人』とは………随分焦っていたようですね。アナタを追うためにわざわざこちらのエキスパートの元へ来て良かったですよ」
「………ああ、そうか」
至極納得した声で、ティールが呟いた。
「最後に殺されたのは、アンタの奥さんだったのか」
二発目が、ティールのコートの裾を打ち破った。弾丸は空気に金切り音を立てて虚空へと飛び去っていった。
「貴様には『復讐』を………そう思って、生きてきた」
再び撃鉄が上がる。
おそらく、次は当ててくるはずだ。
「よもや一年目でぶつかるとは思わなかったよ、リカルド!」
発射音と同時………いや、早かった。
ティールは横っ飛びに転がると、突っ込んだままだった懐から銃を取り出し、狙いも定まらずに一発とりあえず彼のほうへ発射した。
警戒したリーデンが身を伏せる。
その隙に、ティールは街路に植えられていた木に身を隠した。撃たれるおそれも十分にあったが、弾の残りことを考えると牽制で使っているため、あちらもむやみやたらに連発は出来ないらしい。
しかし、長期戦に持ち込まれれば不利になるのは明白だし、今の銃撃戦はおそらく多少は止み始めた風に乗って誰かの耳に届いているはずだ。
がっしりとした木の後ろから咳が二つ、逃げられないことに念を押すかのように吐かれた。
緊張とはもはや呼べない耳鳴りに近い音が、耳を支配する。
ティールが背を向けた男は、間違いなく強敵だった。
………どうする?
リスクのでかい計算だけは、しても無駄だ。予想外に陥ることが多すぎて計算にならないからだ。
「リカルドらしくないですね。伝説どおり堂々と正面から銃弾でも躱してみてくださいよ」
余裕に油断、そして勝ち誇ったような笑い。
雪に沈む靴の音が、
一つ。
………二つ。
「一つ聞かせろ!」
ティールはあらん限りの声で夜に咆哮した。
「…………」
返事はない。
前進してくる様子も無い。
ティールはそれを『肯定』と取った。
「リーデン………アンタの妻は、どこを打ち抜かれたんだ?」
「……たくさんの死傷者をいちいち覚えていないわけですか」
「違う。自慢じゃないが、俺は一人も殺しちゃいない……逃げる際だ、間違えてどこを撃ってしまったのか、教えてもらえないか」
「………こめかみから一撃ですよ。問答無用の即死です」
ティールは少し黙った後、ぽつりと言った。
「……お前は、俺を許す気はないな?」
「何を言い出すかと思えば………そんなものあるわけないだろう!」
「………それを聞いて安心した」
一瞬の後、木の影からティールは跳躍した。リーデンの銃から放たれた一発は紙一重で空中を滑り、教会の壁に当たり火花を散らした。
「ッ!」
リーデンが、次弾を装填している暇はなかった。
一撃を喰らう覚悟で構えを整えていたティールは、その引き金を引いた後だった。
熱を持った牙が、無意識の内に態勢を崩した右の肩へ寸分違わず吸い込まれて行く。
数瞬の後に血飛沫が白い雪の上を汚し、その銃弾の反動を受けてリーデンはその雪の上に滑るように倒れ込んだ。
「……………」
空気が、ざわめていた。
銃撃の残響音のぽっかりした感じが辺りに広がって行き、その後ろからと獣の残吼がティールの目の前の男の口から吐かれた。ティールは彼の元へ即座に歩み寄ると、そばに転がっていた拳銃を拾いあげ、自分の銃口を倒れた青年に向けた。
血の割に、痛みはさほどではないことに、リーデンは不思議を覚えたが、それも次第に納得した。
寸分違わぬ銃裁き。
彼がエンシュタルテ時代に付けられた仇名だった。
「……致命打にならない一撃なら、喰らってもよかったんだがな」
「ふざ………ける、な」
憎悪を称えた瞳。
必死に肩口を抑えている左手は………その下の雪でさえもが深紅へ染まって行く。
これが妻を失った哀しみを、憎悪に代えてまで挑んだ結果。
「人としての情に脆かったのは、お前の方だ」
咳交じりに、ティールは銃口を彼の額に当てた。
「悪いが、あんたの奥さんを殺したのは、リカルドじゃない」
「……なにを……いまさら!」
「多分、リカルドの相棒がやったのは事実だ。でも、リカルドはそんな近距離からこめかみを撃つような見せしめはやらないんだ。人質もとったことはないし、そうでもしなきゃそんなところを撃つのは不自然だ」
その言動のおかしいことに、リーデンは眉根を寄せた。
「……リカルド?」
「それでも、アンタの奥さんをリカルドが殺した、って言うならその罰をいくらかでも俺が受けようと思っただけだ。償いにすらならないけど、それ以上の意味は無い」
「……」
「俺はもう行くけど、追ってきたら今度こそ本当に息の根を止めるから、黙っていてくれないか」
静かに呟かれた声は、間違いなく本気だった。
「どうして、こんなことをするのですか」
「わからない……けど、アイツが目指した理想……人を無理に救おうとしても、お前等みたいにほかに皺寄せが来るのをアイツは考えてなかった………結果がこれなんだよ。結局、連鎖は断ち切らない限りどこかで弊害を生むんだ」
『なぜそれを繰り返すのか』
リーデンがそう言おうとしたその時。
大きな咳と共に、彼の額に生暖かいものが滴り落ちた。
「………?」
痛みに霞む眼を開き、見たその光景。
自分を撃った男が、真赤に染まっていた。
リーデンの銃を取り落とし口から、自分と同じ紅い血を吐いていた。それを押さえていた左手も、すぐに真赤に染まった。
「………」
「………『風邪』が流行ってるのを知ってるかい?」
ようやく口を放して流れる血を服や雪の上に垂らしながら、ティールは言った。
「とりあえずは………」
「肩を治療してもらったらすぐにこの街から離れた方がいい。昔の仲間から聞いた……これは、風邪じゃない。医者連中もまだ隠し通せているけど、死人だってもう出てる」
それは、リーデンにとって初耳だった。
「……」
「ご忠告……どうも」
完全な、敗北だった。
初めから、ティールはリーデンを殺す気など毛頭なかったに違いない。それを考えると、憎みこそは消えないが、これ以上抵抗する気さえ失せてくるのをリーデンは感じていた。
元々、彼はリカルドなどではないのだから。
「和解なんて、しなくていい。お前が俺を追いかけてきてくれれば、俺はまた逃げる。だから、俺を忘れるな。絶対に、忘れないでくれ」
血塗れの口を袖で拭い、ティールは倒れた警官に向かって呟いた。
そのセリフで、リーデンはその裏に隠れた全てを悟った。
「……………」
無言のうちに、リーデンは目を閉じる。
失血がひどい上に、この寒さは極度に体温と体力を消耗する。すぐさま目を閉じたまま軽いめまいに襲われて、意識がまどろんだ。
「『代わり』では不満だろうけど、敢えてリカルドとしてそう言わせてもらうよ」
霞む意識の中、リカルドの声がそうとだけ言ったのが聞こえたような気がした。