銃声を振り切って、北風の中を駆け抜けて行く。
足取りは、まだ軽い。
……いけるはずだ。
白い息を一度吐いて、白く覆い被さる闇の中に目を凝らしてみる。
足下でまばらに往来する人々の中に、警官隊の姿はない。屋根の上を追走してくる影もいつの間にか風を交えた雪に掻き消されて、姿はおろか音もない。
「撒いた、のか………?」
否。
頭の中に浮かんだその油断を打ち消す。
バムジェイならこれ位は予想して、次の段階へ踏み切っているはずだ。昔から頭だけは切れる奴だったのは記憶している。
何にせよ、油断だけは出来ない。
密集区なので、建物の間に路地はほとんどない。大通りを外れた路地も目茶苦茶に点在しているので、ティールにしてみれば屋根づたいに走るのは雪に気をつければそれほど苦ではなかった。
しかし、それもいつまでも続けるわけにはいかない。外気は人間が普通に暮らす気温を遙かに下回っている。この雪の中、朝まで外で鬼ごっこする気力はティールにはない。
「…………」
一年前から使うことの無かった知識を呼び覚ます。
鈍り切った神経を、全ての感覚を再び研ぎ澄ませる。
………大丈夫、オレは『演じられる』。この舞台に登る資格があるんだ。
「……行くか」
ティールはそう強く思い、厚いコートの下、懐に忍ばせた古びた銃を取り出した。
手入れは行き届いているものの、時代の隆盛からは遙かに取り残された一丁だった。部品はおろか、銃弾でさえ今では手に入れるのが難しい型だ。
吹雪の中、しばらく見つめてから左手にしっかりと握り締める。
「いたぞーっ!リカルドだーッ!」
空気の中、強い吹雪の音さえも切り裂くような声がこだまする。
「………早いな」
いつの間にか、騒がしくなっていた下の状況に複雑な心境のまま、ティールは呟いた。よほど、指揮系統がしっかりしているものと思われる。相手もだてに何十年も刑事を続けているわけではないらしい。
バチュンッ!
銃弾が、少し外れた場所の積もりかけの雪を弾き飛ばした。
間髪入れずにティールの体が動き出す。屋根の死角に入り込み、二発目が来る前に建物の裏手に飛び降りて雪の上へ落下した。柔らかい雪だったのでさほどに痛みは感じない。
反転して起き上がり、すぐに街路へと飛び出す。
「ッ!」
さすがに、いきなり真っ正面から突撃してくるなどとは思ってこなかったらしい。引き釣った顔のままティールを迎える彼に銃を構え直す暇など、ティールが与えるはずが無かった。
銃のグリップで思い切り顔面を殴りつけ、一息の間の後、脇腹にとどめの蹴りを加える。
「………が」
厚着とはいえ警官姿の男は声を上げる間もなく、崩れ落ちた。
一息ついて、今度は街路を走り出す。
ティールは銃声を聞きつけてやってくる野次馬まで相手にするほどバカではない。警察を相手にするだけで手一杯なのだ。
それに、今夜だけはすることがあった。
今日が吹雪であること。
今日が警察がリカルドを捕えよう計画していること。
今日がとある兄妹の別れの日であること。
そして。
今日が最後のチャンスであること。
事態は雪崩のように押し迫ってくる。
しかし、成功は一通りしかない。
『全てを成し遂げる』………ただ一通り。
ティールは街路を反れ、一人路地の闇の中へ消えた。
警笛を聞きつけたバムジェイ達数人がたどり着いた時には既に泡を吹いて倒れている警官の哀れな姿が残っているだけだった。この寒さと巻き込まれる恐れを警戒してか近隣住民も外に出てきていない。
すぐに誰かが抱き起こして、意識を確認する。
「すぐ警察にかついでって手当してもらえ。医師を呼んであるはずだ」
バムジェイは誰にともなく低い声で言うと、雪の上を歩き始めた。
「今ここにいる連中の半数はそっから裏路地に続いてる足跡を追え。途切れてたらそこから本部に報告。残りは続けて追跡を続けろ。警笛が鳴ったらそこへ集結。今の所作戦通りだ。問題なければ、行ってくれ。そして必ず二人で行動しろ」
「巡査、どこへ」
「足取りを追ってもそれは『一方から』だ。もう一方を塞がないとあの男は捕まらない」
「オレ達も一緒に」
「………いや、袋小路の方に少し不安を残してある。俺がいれば少しは違うだろう。君達は囮、と気付かれないように捜索を続けてくれ。うまくいけば途中で罠に引っかかってるかも知れないしな」
そう言い残して、バムジェイはその場を後にした。
「………おい」
残った警官の一人が、消えて行くバムジェイを見ながら、隣の小さな警官を呼んだ。
「なんだよ」
「あの人、このままこの街にいたりしねえよな?」
「………さぁ」
「アイツが上司なんて、冗談じゃないぞ」
「でもさ。こんな寒い日に警備なんて、冗談じゃねえよなァ」
会話に割ってはいるように、別の赤い髪の警官がぼやいた。風の音はまださほどではないが、寒さは尋常ではない。夜半になってもしも吹雪が視界を遮るようになったら、手がつけられなくなる。
「なんでも、北の方では結構有名だったらしいぜ、この泥棒」
「リカルドだろ。俺北出身だから知ってるよ」
一番小さい警官が、残った二人を先へと促しながら言った。
「でも、リカルドはそう言う泥棒じゃなかったと思うんだけどなぁ」
「そう言うって……どういうことだ?」
「うーん………うまくは言えないし泥棒だったのは間違いないんだけど………。なんか、義賊っぽかったんだよ。盗んだ物の大半はスラム街に回っていたらしいし、それが物の場合でもちゃんと裏ルートに回ってお金の方はリカルドの手元には残っていないって話だったよ」
唸りながら、小さい警官はどうにかやっとリカルドの肖像を語り出した。
「そりゃ……時代遅れで酔狂なヤツもいたもんだな」
「うん。でも、一年前に捕まったって話を聞いたような気がするんだけどね」
「ま、泥棒には違いねえだろ。早く捕まえて帰りてえよ、俺は……ったく」
赤い髪の警官は、一度赤くなった鼻をすするとゆっくりと歩き出した。
「そうだな」
赤髪に続いて二人も足跡の方向へと裏路地を消えた。