表が何か騒がしいのに気付いたのは、妹のシモンヌだった。
「………?」
こんな夜に祭りをするなどと言うことは生まれてこの方この街を出たこともないシモンヌは聞いたこともない。
兄のティールは今、グーを出して敗北し、キッチンで食べ終わった食器を相手に悪戦苦闘しているため、小さなリビングにはいない。
なんだろう。
時間も天候もそうだし、少し気になる。
「兄さん」
「ん?」
キッチン(と呼べるほどの大きさはないが)まで行くと、ティールがお椀を持って振り向いた。
「何か、外が騒がしいよ」
「うん、俺もさっきから聞こえてたんだけど………なんだろうな?」
さすがの兄も分からないと言う。
「外に出てみようよ」
「えっ、今から?」
ティールは明らかに嫌そうな声を上げた。
「いいからさ。ちょっと戸口から見るだけだよ」
「戸口からなら一人で見てきて俺に教えてくれ。せっかく沸かした湯が冷めると洗い物が辛い」
薬鑵で付け置きの洗面器に湯を足して、ティールはまた洗い物作業に戻る。
「んもう、このかいしょーナシ」
「どこで覚えた、そんな言葉」
「もういいよ。それじゃちょっと見てくるね」
「甲斐性ナシかよ………」
嬉しそうに戸口へ駆けて行くシモンヌを見ながらティールが呆れる。
フォークについたチーズはなかなかとりにくい事に気付き作業に集中しようとした、その時。
「に、兄さん!」
慌ただしい声を上げて、シモンヌが戻ってきた。
「どーしたよ、象でも見たか?」
「そうじゃないよ。警察…………」
シモンヌの消え入るような声にティールはフォークと格闘しながら背を向けたままで言った。
「いやー、昼間ならともかく夜中に色々やられると迷惑だよな」
「………」
「でもこんな寒い日に出勤なんて俺はゴメンかな。警察だけには子供の頃からなりたくなかった」
「兄さん!」
シモンヌはありったけの声でその背に放った。
見ていた背中が急に遠く感じて、限りない不安を抱く。
見ていることができなくて。でも見ることをやめてしまったら消えてしまいそうな。
孤独が、ひどく恐ろしく感じた。
「………外の人は兄さんを捕まえに来てるの?」
「……多分ね。一応元は悪者だったから、顔なじみの刑事だっているんだぜ」
食器をカチャカチャ言わせながら、それでもティールは動かない。
シモンヌは隣に立ち、洗い終わった食器を拭き始めた。
「………女の人?」
「いいや。髭面のオヤジ。バムジェイ…ファストロードって二、三度大声でそう言っていたのを聞いた」
しばらく、食器のぶつかる音だけが室内に響いた。外の騒がしさが、やけに静かに感じられる。
「捕まるの?………逃げるの?」
「………成り行き次第かな。バムジェイが土下座して「捕まってください」ってやったらもしかしたらわざと捕まってあげるかも知れないし」
淡々と、ティールは言葉を繋いだ。
「随分、適当」
「子供の頃からさ」
少し、シモンヌが微笑んだ。
「………帰ってくるの?」
「できたらそうしたいけど」
曖昧な返事に、シモンヌの心が少し揺らぐ。
少し、言うのを躊躇してから、それでも告げる。
「足手まといになるから………付いていくなんて事は言わないよ」
「…………」
「でも、寂しいのは嫌だよ」
ぽつりと、少女は本音を告げた。少し微笑んだ顔の口元が、きゅっと真横へ結ばれた。
「一人でご飯作って食べて、洗濯や掃除して、今日もまた帰ってこなかったって言って、それで誰にもおやすみなさいを言わないで寝るの」
ティールはそのセリフに今まで感じたことのない痛みを感じながら、それでも洗い物を続け、それをシモンヌへ義務のように渡し続ける。
「………嫌だよ」
駄々をこねるように、小さく呟いた言葉。
どんな痛みよりも、痛い言葉。
確かに、ティールはそれを感じる。
真横にいる、たった一人の少女の顔さえ見られないまま。
「これは、俺のエゴだ」
最後の皿を濡れた手で確かにシモンヌに受け渡し、ティールは言った。
「覚えてるか。
この街に着いた時、死にかけていたある男の事を。
お前に会った時も血塗れだっただろう。
その男はエンシュタルテで警察に撃たれて、ドートネルで裏切りと事故にあって、瀕死だった。
あの格好じゃ物を買うわけにも行かず、奴は飲まず食わずで街をさまよったんだと思う。
だがお前は突如部屋に転がり込んできたその男を必死扱いて助けて、一旦意識が戻ったソイツに一言こう言っている。
『私も黙っていてあげるから、だから一人にしないで』
そういうことがあって、俺達は立派な兄妹を演じてきた。俺も最初は隠蓑にはちょうどいい、時が経てば適当な理由をつけて出ていけばいい、そう思った」
外を、何かがざわざわと蠢いている。
風でも雪でもない、認めたくない『何か』が。
音は少しだが、確実に大きくなっていた。
「お前は、本当に妹らしい妹だった。匿ってくれて、ありがとう」
………言うだけのことは言った。
ティールは無理やりそう思ってそこから出ると、タンスの前に行き下の引き出しの奥から厚い布に包まれた何かを取り出した。
………これを、取り出す羽目になるとはな。
自嘲めいた言葉を頭の中奥深くで反芻しながら、それを羽織ったコートの内へしまい込む。少し重たい、それでいて懐かしい感覚が彼の記憶から何かを引っ張り出そうとしている。ここで暮らした一年とは比べものにならないほど忌まわしい記憶であることも、ティールは承知していた。
「……………」
台所で小さく屈んで、震えるシモンヌの小さい背中を今、一目見る。
締め付けられる思いがした。
この暮らしが消えて行く、無くなってしまおうとする、この時。
今までが「幸せ」であったことを切に感じるのは、なぜだろう。
あの肩に、手を掛けることはもう許されない。
ただ、あまりにもエゴな想像が許されるとするなら。
自分が悲しい思いをさせて泣かせてしまったのに。
それでもなお、自分のために泣いてくれる人がいるのを知る、それだけで幸せだった。
声にもならない想いを小さく口の中で呟いてから、ティールはもうシモンヌを見ることなく、小さな咳払いと共に駆け出していった。
刹那。
バムジェイの不意を突いて頭上を黒い影が跳躍した。
隣の屋根の上を、駆けて行く。
「ッ!」
隣の警官が少々ぼんやりした後、慌てて警笛を鳴らした。
千切れた緊張の欠片を拾うかのごとく、警官達が屋根の上を疾駆する黒い影を追う。無論、バムジェイもそれを追った。
途中、銃声が一発叫声の中を潜り抜けたが、影に当たることなく雪夜へと消える。
「あのバカ…………」
あれほど撃つなと言ったのに。
バムジェイはリーデンのところまで危なっかしくも戻ると、リーデンの持っていたトランシーバーをひったくって、大声を上げた。
「本策は作戦通り続行。若干の遅れはあったものの、追跡は絶対に撒かれるな、いいな!」
短い砂の音の後、いくつかの「了解」が続いた。
「それじゃ、行きますか。バムジェイさん」
「ああ。お前は1の方へ向かえ」
「了解。バムジェイさんは?」
「俺は2へ向かう。リュベリが合流する手筈になっている」
「そうです……か」
激しくリーデンが咳き込んだ。
相変わらず風はないが、雪も激しくなってきている。たかが風邪とは言えこじらせると大変なのは知っている。バムジェイは、質の悪い風邪が広がりつつあると言う話を知らない。
「大丈夫か?無理はするな」
「心配してくれるんですか………怒鳴られるかと思いました」
「足手まといはいらないだけだ」
「さいですか」
口をとがらせて、リーデンが言った。
「とりあえず、一度リュベリの所まで行って指示を仰げ。それが俺の指示だ」
「頼りない上司だなァ」
「俺は人を扱うのに慣れてないんだよ、それよりいいな」
「分かりましたよ」
渋々、承諾したリーデンを見て、バムジェイはロングコートに降り積もった雪を払いのけると再び雪の夜を歩き出す。
………遠い所で、銃声が鳴り響くのが聞こえた。