−0−



 視界が、既に霞み始めていた。
 熱を持った腕が異様に重く、ぼんやりとした意識の中では、足はふらついて千鳥足になっていた。
 それでも歩き続けるのは、何故だかわからない。
 どうせこの出血では生き残ることは難しい。
 死ぬのだから、動けるうちに動いておく。
 漠然と、頭の中をよぎるいくつかの思い。
 思い返してもろくなことが無い人生など、思い出すだけ無駄だ。
 まだ雪の降らない晩秋の石畳を、俺は歩いている。

 ふと、ある所で俺の脚は立ち止まる。
 窓ガラスが、中から外へ向かって割れていた。
「………?」
 夫婦喧嘩でも遭ったのだろうかと思うが、その窓を塞ごうとした形跡もなく、家の中は恐ろしいほどに静まり返っていた。
 不思議と、興味が湧いた。
 死ぬ間際だというのに、まったく不思議だとしか言いようが無かった。
 俺は壁に寄りかかって、半身を乗り出す格好でその割れた窓という穴からその中を覗き込んだ。
 言うまでもなく、暗い。
 それでも月がだいぶ明るかったので、しばらくすると疲れていた目にも、暗闇に何があるのかは大体わかった。
 粉々になったガラスの破片。
 男が一人、大の字になって床に寝ていた。
 酔っ払って、窓ガラスでも割ってしまったのだろうか?
 真実が解ってしまうと、途端にどうでも良くなった。
 なんだ、という気持ちが頭の中に広がる。
 どうせ世界など、つまらないものを錯覚して面白く見ているに過ぎない。
   思い込みか、興味のなれの果てか、まったく、世界という奴は。
「………?」
 暗い部屋の影で、何かが動いた。
光が遮られたので、俺の姿は見えているはずだった。
 別に、今更強盗や泥棒扱いされたところで、逃げる気力も体力も失っていた。
 あることに気付いてしまうまでは。
「………」
 男は、大の字に寝ている。それは間違いない。
 しかし、それなら床に流れているそれと、胸の上下の無い体は、一体何を指しているのだろうか。
 自分が撃たれた左手から流しているものと、おそらく同じ。
 殺人。
 そして、その犯人はおそらく。
「そこに誰かいるんだろ、出て来いよ」
 残った体力でなんとかひょいと窓枠を飛び越えて、俺は言った。
 我ながら、なんでそんなことをしようと思ったのか、皆目検討もつかない。ただ、何を思ったのか道端でだけで死にたくはないと思っただけかも知れなかった。
 隠れたつもりのソファーから、何かが這い出してきた。
 予想通り、返り血を浴びてその手は赤いペンキにでもつけてしまったように真っ赤な血がこびりついている。その手にはしっかりと得物らしき大きな灰皿が握られていた。
「………お前が殺したのか」
 男は胸のはだけた少女に向かってそう言った。
 服が引きちぎられているところで、大体の意味は予想できる。
 少女は震えた手から灰皿を床に叩き落すと、自分の手が真紅に染まっているのに気づいた。
「…………うん」
「そうか」
 死に近しい者同士、男は少女に微妙な親近感を覚えた。
「とりあえず、埋めとけ。酔っ払って灰皿に頭を打って死んだことにしちまえよ」
 いきなり現れた血まみれの男の話を、少女は半信半疑で聞いていた。
「…………あなた、誰?」
「さあ、誰だろ」
 それが男と、少女の最初の出会いだった。

  −2−

 寒気を孕む、そんな風がほとんど煉瓦造りの洒落た街並を間断なく駆け抜けて行く。外にはやはり夜から降ると言う雪に備えてか、人並みがいつもに比べて遙かに多い。雲が厚くて外は薄暗く、まだかなり早い時間だが焚き付けられる店先のランプや、酒場や民家から街路に漏れ出してくる明かりで意外なほどに通りは賑わっていた。
 その中を、一つの巨大な茶色の紙袋と少女が移動している。
 否。
 巨大な茶色の紙袋を両手一杯に(二つ)抱えた少年とそれを後目に財布だけを片手に革の手袋をつけた少女が街並を歩いている。
 少女の年端を考えるに、兄妹でのお遣いと表現するのが的確らしい。買い物帰りの恋人達、と言うにはあまりにもシュールで少し無理のある光景。
「ぐーッ………」
 何かを堪えるような声が、二つの紙袋の中から漏れる。
 ちらり。
 少女の視線の先には紙袋。身長差はそれほどないが、それにしても紙袋が邪魔で青年の顔が見えない少女だった。
 まず、ため息を一つ。
「辛そうだね」
「……………」
「…………持ってあげようか?」
 一拍置いて、男。
「……いい」
 男は意固地になっていた。
「ハァ………」
 バカな兄に、もう一つため息。
 荷物をジャンケンで持とうとか言うから、こうなるのだ。
 案の定、敗北率9割を越える男は性懲りもなくグーを出して負けた。
 ジャンケン好きの癖に、自分が負ける理由を分析したりはしないのだろうか?
 自分の兄ながら、少し思う。
 ……この年にもなって、みっともない。
「兄さん、大丈夫?」
 そう聞かれると、男は意固地になる。ダメとは言えないのが男と言うバカな生き物だ。たまにしか一緒に外出しないのでどこまで頑張れるか兄を試していたりした。
「………ダメ」
 ……バカを通り越したらしい。
「ホラ」
 両手を少し差し出して、紙袋を一つ受け取る。
 ずしり。
 ………かなり重い。
 これを二つとなると、少し兄には荷が重かったか。
 少女は、そう心の中で兄に謝罪する。
「…………もうジャンケンはしない」
 兄はぽつりと不貞腐れた顔でそう言った。
 絶対に、嘘だ。
 なんてったって学習能力が無い。前例があってしまってはその説得力ももはや皆無に等しい。
 口には出して言わないが。
 二人で紙袋を抱えたまま、いつもとは打って変わって喧騒で騒ぐ通りを、さしかかった路地で右折する。
 途端に、細々とした街の陰が浮き彫りになる。
 この街は、歴史で言えば交易で栄えたようなものなので、今買い物をしていたような立派な建物はさほどにない。行ってみれば住宅街に立派な家など特権の商人くらいのものだ。
「しっかし、寒いな」
 兄が唐突に切り出した。
「当然だよ。冬だもん」
「急激に、寒くなったものなぁ」
「それは、確かに」
 一週間前に振り出した雪は、瞬く間に気候をガラリと変えてしまった。急激な気候の変化で通年の数倍が質の悪い風邪にあたり、数少ない病院のベッドが一時埋まってしまったと聞いていたので、二人も風邪の対策には余念が無い。
 誰かが何か悪いことの予兆に言っていたが、風邪ならまだしも、悪いことの予兆それ自体人間ではどうにもなりそうにない。
 ふと、二人して空を見上げる。
 蓋のように厚い雲の掛かった空は、圧迫されたかのようにその息苦しさを街に押しつける。雪が降り始めてから街に陰欝な雰囲気が漂い始めたのも、確かだ。
「ねえ、兄さん」
「んー?」
 空を見上げたまま、ぼんやりと兄が答える。
 妹の見た彼の横顔に、なにか引っかかるものを感じさせながら。
「………お腹減った?」
「んー、まぁね」
 顔が変わらないと言うことは、随分かけ離れた答えだったらしい。
「それじゃ、早く帰ろう。お昼その辺で食べちゃえば良かったね」
「俺達そこまで裕福じゃないぞ」
「私達そこまで貧乏じゃないよ」
 ………沈黙。
「今日の夜は何にしようか」
 兄からすっとぼけた話題が切り出される。
 無論、無視。
「仕方ない、早く帰ってあげるよ」
「食事当番をそう簡単に放棄させてたまるか」
「覚えてたか」
 軽くにらみ合って、笑う。
「昼は何作るの?」
「どうしよっか。久しぶりに色々買っちゃったし。昼を軽めにして夜を少し豪勢にしようか」
 名案だとばかりに嬉しそうに笑う妹。
 兄はそれに賛成して、別の話題を振った。
 いつものように、二人並んで住宅街への門をくぐる。
 別に、門といっても隔離されているわけではない。ただ入植地時代が終わることにできた密集住宅地の入り口に門があるだけのことだ。しかし今は、「門」と言う建物によって一種隔離されてしまった世界は、どことなくその空気を異質とさせていた。
 いつも以上に、空気が重い。
 一つ、軽い咳が兄の口を叩く。
「風邪?」
 妹が心配そうに兄の顔を見た。
「まさか」
 そう言って、兄は軽く笑った。その顔に、心配の色はない。
「そう」
 それだけを言って、妹は家へ駆けて行く。
 兄はそれを見ながら、もう一度軽い咳をした。
 その時。
 ひゅっ。
 視界の端を妙なものが横切り、すれ違った。
「?」
 何気なく後ろを振り返ると、鳥が暗い空の下を低空で飛んでいた。
 いささか、寂しげな鳥の姿。
 それが、暗い空の下へ続いている。
「…………」
 その暗い空から、雪が降り始めた。