これは、雪の降る田舎町のお話。


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 例えば、泣いてくれる人が一人でもいるということ。
 例えば、毎日交わす言葉の、一言の重み。

 『あたりまえ』のこととして

 忘れ去られている事実は誰にでもある。
 そして多分、
 人はそれらに気づかなくても生きて行ける。

 『あたりまえ』に気付いて、その価値を知るのは
 『あたりまえ』を失くそうとする時だけ。

 その奇蹟の積み重ねが『あたりまえ』になることさえ
 人は当の昔に忘れている。

   −1−

 風が凪いでいる。
 刃物のように鋭い、この季節特有の北風がぴたりと止んだ。
 取り残された風景とがらんとした空間の中、男はただ立ち竦む。
「…………」
 白い息が、澄んだ大気に霧散する。
 男の視界の先に、どこまでも続く足跡が延々と残されていた。
 その傍らには雪で薄められた血の赤さも続いている。
『お前等の事は忘れない。絶対に忘れない。だからお前等も俺のことは忘れるな。
 俺は逃げてやる………どこまでも逃げてやるから、どうか、忘れないでくれ』
 その薄紅色の血の主が最後に吐いたセリフを頭の中で反芻する。
 おそらく、あの出血で治療を受けなければ二日も持たないだろう。
 血走っていた眼は、近しい死を予感していたに違いない。
 男は、願い通りその眼を忘れることをしなかった。

 ひんやりと足首からまとわり付いてくるような寒気に、男は眼を醒ます。
 未だ使い慣れない、通された客間の天井が柔らかな明るみを帯びた薄暗がりにぼんやりと照らし出される。
 ………夜明けか。
 男は細めていた眼をしばらく天井に泳がせて、寝ていたソファーから半身を起こして座った。喉の渇きが酷い。
 しばらくの旅で切ることさえ忘れていたばらばらに伸びた顎髭を手でぼんやり触りながら男はしばらく黙っていたが、喉の渇きに堪え切れず、待機室へと向かうためにベージュのロングコートと共に部屋を出た。
 夜明けと言うこともあり、当然ながら前夜より人気はない。
 寒さの緊張でピンとギター弦のように張りつめた空間と、静けさが鎮座するこれと言って音の無い朝は嫌いではないが、この時男は明らかな嫌悪を感じていた。
 気持ちが逸ったのか、と男はふと思う。
 よりによってこんな時に『眼』の夢を見るとは。
 あの夢を見たのは、一度や二度ではない。それこそ呪われたかのように、夢に現れる。
 もう声のトーンもはっきりとは覚えていない。
 それでも、あの眼は言うのだ。
 「忘れないでほしい」と。

 待機室に入ると、テーブルに散らばったトランプと仮眠中の刑事の姿がまず映った。別に注意も払わず、そのままドアを開けて中に入る。
「………どうかしましたか」
 キイと椅子が回るのがセリフの半歩後を歩き、視線がぶつかる。
 男が見たのは、まだ二十台前半の青年だった。
「いや、水を貰えないか」
 喉の渇きからか、声が擦れている。咳払いをすると、痰が喉を巡る嫌な感触がした。
「………珈琲はどうですか?また寝るのであれば、別ですけど」
 相手も知らない警官として、一応の礼は払ってくれたらしい。
「頼む」
 短くセリフを切って、男は空いていた丸椅子に腰掛けた。対照的に青年は立ち上がり、慣れた手つきで珈琲を作って行く。
「刑事さん、昨日の夜ウチに来た人ですよね?」
「ああ」
 カタカタと静かに鳴っていたストーブの上の薬鑵からカップの中へ湯を注いだ。
「そっか。なんか、事件でも追ってるんですか?」
「…………」
「あ、いや、ごめんなさい………つい癖で」
「…………」
「本当に、ごめんなさ……」
「泥棒を追ってるのさ」
 気まずい沈黙と話題が流れることを察知してか声を遮って、男は呟いた。
 カップに珈琲を注ぎ入れる小気味のいい音の後、青年が繰り返す。
「泥棒………ですか」
「ああ、コソ泥だ。別に巷で噂の怪盗シフォンを追ってるわけじゃない」
 青年の頭に聞いていいものかどうか一瞬疑念がよぎったが、声に出していた。
「怪盗でもないコソ泥をなんで追っているんですか?」
 今度こそ、会話に亀裂が入りかけた。
 青年にも容易にそのことは理解できる。
 彼がその空気の中で許されたのは、男の前に珈琲を置く動作だけだった。
「…………悪い」
 しばらく珈琲をすする音だけがして、ふと男が呟いた。
「いえ」
 それっきり、二人は何も言わなかった。

 珈琲を飲み終わると、男は客間に戻るでもなく外へ出た。
 予想通り風のない、いささか殺風景な街並が男の眼下へ広がっている。相変わらずイカれた寒さとまだ日の上がり切っていない朝と夜の隙間を漂う朝靄が、ロングコートの合間を縫って滑り込んで来た。
 もう少し日が出てから出ようかどうしようか入り口でしばらく迷ったが、散歩をしてみることにした。
 取り出した煙草に火を付けて一服してから、左右を見る。
 適当に、右折してみることにして、道は解からないがここに戻ってこられればそれでいいのだと軽い気持ちで歩き出す。
 もしもの時のために、地理を覚えておいて損はない。
 あのコソ泥と戦うには、なるたけ差を埋めておかねばならない。親と息子ほど離れた年の二人が鬼ごっこをすればどちらが先にバテるかは目に見えている。それならこちらが勝つだけの勝率は自分の体力をどこで彼を上回らせるか、それにかかっている。
 情報だけは、どんなにあっても困らない。
「どこへ行くんです?バムジェイさん」
 歩き出して道なりに朝から歩き出す人が見え始めた頃。
 後ろからぶしつけに声が掛かった。
「…………」
 年は、かなり若い……それでも幼さからは脱出している、大人の顔が面倒臭そうにこちらを覗いていた。とっぽいと言うほどではないが身長もある。
 若い女が俗に言う「まあまあ見られる顔」と言う奴だろうか。それにしても、何の用だろうか?
 色々考えた挙げ句、彼の服のエンブレムに見覚えがあるのに気付いた。
 引き留められるいわれはない。
「警部への挨拶は昼頃になってからだと聞いていたが」
 少しキツイ口調で返したが、彼は別に気にした風もなく落ち着き払って言い返す。
「いえ。警部からのお達しでアナタの保護役を任されまして、自己紹介をと思って」
「いらんな。俺は俺で勝手にやるよ。リュベリにそういっとけ」
 彼を一瞥して、バムジェイはまた歩き出した。
 彼は誰に言われずとも、バムジェイの横をついて歩く。
「一応、名前だけは言っておきます。リーデン、と言います。リーデン…ベルヘルト」
「俺の名前は知ってるんだろう?」
「バムジェイ…ファストロード巡査、四十三歳独身、エンシュタルテ警察の一等巡査で同警察内ではかなりの凄腕、しかし同時に警察内でも屈指のガンコ親父でその融通さといったら右に出るものはいないと言う。囚人達からの仇名は「取調室のヒゲ悪魔」」
「凄腕ってとこまでは認めてやる」
 ぼそりと、バムジェイが呟く。
「それよりお前のところの警察はかなり暇をしてるようだな」
 自分の経歴をすらすら言ってのけた男に、バムジェイは皮肉の一つでも寄越してみた。
「ここ数年は平和だけが取り柄の街ですから」
 面白味も何にもないですよと付け加えるリーデン。
 つまらなさそうに朝光に溶け込み始めた靄の中に、バムジェイは煙を吐き捨てた。
「ところで、お腹空いてません?」
 突然、リーデンが切り出した。
「……いいや」
「この時間だと少し早いかも知れないんですけど、おいしいサンドイッチを食べられる軽食屋さんが朝からやっているんですよ。労働者相手なんで、すっごい商売上手の人なんですがね」
 いきなりぺらぺらと喋り出したリーデンを見て、バムジェイは閉口した。
「……と言うわけで、いかがですか?」
「一人で行ってこい」
「そうですか………残念」
 どこか哀愁を漂わせたまま、リーデンはたそがれた。
 朝なのに『たそがれる』とはこれいかに。
 せめて自分のいないところでやって欲しいものだと、バムジェイは思った。
「と、言うわけで一応街の案内をしましょうか」
「いらん。勝手にやると言っているだろう」
 どこまで話を聞いていたのか、聞いてやりたくなる。
「そうは行きませんよ。あの人に逆らったら僕だって『閃光のグー』を喰らう羽目になるんですから」
 話の凄味を利かせているところを見ると、どうやら事実のようだ。
 バムジェイにとっての過去の同僚もエラくなると色々あるらしくその苦労を知ってか知らずか、その男の昔を思い出して少々気が楽になる。
「そうか、アイツも元気でやっているんだな。せいぜい労われよ」
「待ってください」
 歩き出したバムジェイのロングコートを引っ張りながら、リーデンは言った。
「ガキじゃねえんだ、しつこいぞ!」
 声を荒げるとリーデンは手を離して再びバムジェイと向き合った。
「何のために貴方が呼ばれたのか、解かっているんでしょう?」
 澄んだ空気の上を、男の声が遠くから流れてくるのが聞こえた。
「人員補充か体のいい左遷だと聞いているが?」
 あしらったようなセリフで、バムジェイは言った。
「体のいい左遷なんてありゃしません。左遷は左遷です。それにウチの人員は多いくらいですし、はっきり言ってエンシュタルテは左遷される側ですから心配なく」
 今度は、バムジェイが少し辟易する。
 溜め息を虚空に一つ。
 そして口を開く。
「………やはりか」
「一年前に同業をした女がレイケルベルで捕まりまして。できる限り協力してやるから捕まえろと叱咤されたそうです」
「そりゃレイケルベルの奴らも落ちたな」
 棒読みでバムジェイが呟く。
「後は歩きながら話しましょうか?」
「………吸うか?」
懐から地味な銘柄が顔をのぞかせた。
「いりません」
 出した煙草を再びしまって、二人とも歩き出した。
「それで、レイケルベルの警察によるとなんですが、その男は一年前にドートネルで強盗を行なった後、レイケルベルでその女を裏切って逃げたらしいんです。男は強盗時に随分傷を負っていたので、無理はできなかったらしいんですが、その後の逃走経路は消えてしまいました。女の話だとその逃走経路の果てに、この街の名前があるそうです」
 まるで持った手帳を読み上げるかのように、淀みもなくリーデンが告げる。
「女は盗品も奪われたと言うし、それが元で釈放されましたけど」
「………リュベリが言いたいことは分かる。奴も憶えていたクチだからな」
「この街の密集住民街に、似たような顔がいるそうです」
 バムジェイがはっとしてリーデンの顔を見た。
 リーデンは澄ましたまま、煙草をくわえたままのバムジェイの動向を伺う。
「奴の顔に………」
「ありますよ。警部の証言にあった通り、右こめかみから頬に、真下に伸びる傷、でしょう?」
「………そうか」
 バムジェイは煙草を落とし、足で踏み潰した。
「間違い、ないんだな?」
「警部の話では十中八九間違いないそうです。あ、こっち行き止まりです」
 直進しそうになったバムジェイを、リーデンが引き留める。
「それで、間違いないのになぜ捕まえなかった?捕まえてから会っても俺は構わなかったが」
「そればっかりは警部に聞いてください。あ、着きましたよ」
 そう言って、リーデンが心底嬉しそうに(胡散臭さは完全に抜け切ってはいなかったが)建物の中へ入ろうとする。
『さんどいっち屋』
 中から何か啜る音も聞こえると言うのに、看板には間違いなくそう書かれていた。