………疲れた。
いつから、休んでいないんだろう。
あの家を出る前?
いや、この街に着いた時?
違う……あの場所から逃げる前?
………違う。
俺は、一体いつから『見えなくなった』彼の背を追っていたのだろう?
雪の上を、赤い雫と足跡が点々と続いていた。
間違いなく、ラクハンブルのものだった。
「……………」
その上をなぞるように、再び足跡と雫が塗り込められて行く。
風はいつのまにか止み、奇妙にすら思える静寂が雪と闇、そして足音を際立たせる。
そして、今自分が自分の唯一の目的を果たそうとしている。
この世界にあってティールを動かす条件は、それで十分だった。
脇腹の血は、止まらない。疲労も吐血も手伝ってか、まともに感覚を保って走っていられることが、奇妙にすら思えた。
もしかして、これは夢じゃなかろうか。
ぼんやりとティールは思う。
もう、考えることは体が許してはくれない。ただ、動けるように動いて、目的を果たすための最低限の行動ぐらいがティールにできる精一杯だった。
街の中央を繋ぐ橋の上まで来て、ティールはその向こう側に誰かがいるのを視認した。
「ラクハンブルッ!」
自然に口をついてでた叫びは、彼を振り向かせるのには十分だった。ラクハンブルは肩を抑えるのをやめて、静かにこちらへ向き直った。
走ってきた分、体の重さと残る体力から滲み出る体温の心地よさだけが、ティールを支配していた。
「……その傷では、もはや」
「お前も連れてゆく」
「できますかね。その傷で」
「やってみるさ、これからな」
アーチ型になった橋の上。
ティールはその男めがけて血まみれになった銃を構えた。
予想以上に、銃口が定まらない。
相手も、それはわかっているはずだ。
ラクハンブルも、静かに左手で銃を構えた。
「アナタごときにこれ以上煩わされるわけにいかないんですよ。私も忙しいですからね」
「……今ヒマにしてやるよ」
苦笑にも近い笑いが漏れた。
まだ、終わっていない。
その、次の瞬間だった。
胸を込み上げる嘔吐感に、ティールは膝を付いて、喉からまとわりつく「それ」を思いきり吐き出した。
先に付けられた足跡の窪みに、赤い血だまりが出来た。
「…………」
脱力感が、体を重くする。
銃を持つ手から感覚が途切れて行く。
全てが、まだ激しく鼓動を伝える胸に集約して縮まって行くような、感覚。
目の前が、白と赤に沈むように霞む。
ここまで……なのか?
目の前まで来て。
兄が望んだわけでもない復讐を、自らが安定するための『生きる支え』にして。
所詮は、舞台にあがれるだけの脇役だったのだろうか?
いつのまにか、目の前に銃口があった。
「………」
空ろな瞳のまま、それと、それを持つ物の顔を交互に見つめる。
「……勝負はあったようですねェ」
勝ち誇った顔で、嬉しそうにラクハンブルは言った。
「ことごとく私にたてついてきたあなた達とも、ようやくおさらばできますよ………やっと少し安心して眠れそうです」
「……」
今更、何も言い返す気にはならなった。
「それじゃ、さようなら」
左手の人差し指が、引き金に力を入れた。
ガウンッ!
静かな、残響音の後。
「ガ……ぐ……がぁ」
短い咳混じりに、ティールとは違う者のうめき声が耳に入った。
ティールは閉じていた目を開く。
目の前の男が、胸に穴を開けて血を噴き出していた。
ゆっくりと、彼が後ろを振り向いた。
二発目。
びくんと体が衝撃に波打った。
続けた三発目で、ようやく体が崩れて、雪と血の上、ティールのすぐ横へ倒れた。まだ、息が続いていたが、そこに容赦なく四、五発目が叩き込まれて、男は絶命した。
誰が撃ったのか、倒れている状態ではわからないが、次第に足音が近づいてくるのが聞こえた。
視界の上に、黒い影が覆いかぶさる。
「ブザマだな。『リカルド』」
その声で、ティールは途切れかけた意識を取り戻した。
聞き覚えのあるその声に、かすんだ瞳を上に上げた。
ロングコートに、シャッポの中年男が煙草を加えたまま立っていた。
「まさか、どうせ復讐するつもりだろうと放しておいたリーデンすら真向から破るとは思わなかった。リーデンもお前も、その修羅場を最小限で切り抜けている………未だその銃裁きは健在、と言うわけか」
血を吐いて四つん這いになったままのティールに、その男は珍しく流暢に語った。
「何があったのかは知らないが、こんなところでラクハンブルに出くわすとはな。まぁ、お前には聞きたいこともあったんで、生かしてやったまでだ」
そう言って、彼は懐から煙草を取り出すとその一本を口に加え、マッチをすって火を付けると、大きな煙を吐き出した。
「しばらく横になってろ。どのみち、その量吐き出したんじゃ長くないのは自分でも分かってるんだろ?」
ティールは再び徐々に実像を失いそうになる視界を、必死になって維持し続けた。その目は、自然と向けるべき方向を見失った憎悪を伴った。
「……貴様、には………ずい、ぶんと………世話に、なった、な」
「お前の世話なんかしてないさ。俺が四年もの間戦ったのは、リカルドだ」
煙を黒い空へ吐き出して、男は………バムジェイは続けた。
「弟のティール・アーシェンじゃねえ」
「………バレて、たか」
今までどうにか踏ん張っていた四肢の最後の力で、仰向けに寝転がる。
首筋にあたる、雪の感触。
背中の汗に染みてくる、冷たい水分の感触。
凍え始めた手の甲に突き刺さる、寒気。
ようやく止まり始めた、腰の傷。
全ての感覚が、目的を為さなくなった。
「どこから、分かってた………?」
「この街について、お前に一度会った時だ」
「最初……じゃねぇか」
咳交じりに、なんとか応答する。
「お前がカムフラージュのために自前で付けたものだろうが、リカルドが最後に付けていたこめかみの傷はそんなに深くない。そして、いくらぶしつけとは言えヤツはあんな急には俺の前には現れない、あまりにも突発的行動だ。それに、お前とリカルドでは声のトーンが微妙に違うんだよ」
「まるで………ストーカーだな」
「そうかもしれんな」
バムジェイはティールのセリフを短く切って捨てると、真顔になった。
「お前達等の事など、俺が分からないはずがないだろ?」
「………俺達と、母さんを、捨ててくれた、くせに………よく言うぜ」
ティールは血塗れの口をなんとか動かして、父の顔を睨み付けた。
「リカルドは………死んだのか」
「………らしい」
「そうか」
バムジェイは少し目を細めただけで、黙り込んだ。
永遠に、捕えることのできなくなった相手に彼が何を思っているのか、ティールはほんの少しだけ理解できるような気がした。彼も、兄の背中を追っていた一人だったからだ。
「………代わりは………つとまらなかった…」
「代わりなどいても仕方ない。あるのは、お前だ」
あっさりと、この一年を否定された。
記憶に残るその厳しさは幾分も変わっていなかった。
「……………」
「……頼みがあると言っていたな」
「………ああ」
バムジェイにとって思い出したような、それとも肯定とも取れるような返事だった。
「聞くだけ聞いてやる。それからどうするか決めてやろう」
「一人………ガキを………預かって……くれ」
「………今更独身の俺に子守をしろと?」
嘲りに似た笑いがバムジェイの口から漏れた。
「この街から………連れ出す、だけで……いい………。
この街は………もう、終わる………。
彼女は、まだ………兆候が、ない……。
かかって、いても、ちゃんとした所で………治療を受ければ………まだ治る」
「…………」
「金は、少しだけ………リカルドが、残したのに………手を付けてないのが、ドートネルのアジトにある。それの在処を、全部、アンタに………預ける」
「ずいぶん入れ込んでるな。惚れた女か」
「前に言ったろう………『妹』だ………血が、繋がって、なくても……リカルドが、俺に預けた、妹なんだ」
「殊勝な心がけだな。自分たちが死と共に襷にする娘か………まるで死神だな」
バムジェイは、冷静な目のまま死に行く息子の顔を見下ろした。その目には、少しもの感情が現れない。
煙草の煙と雪だけが空の端が白み始める世界を先行する。
夜明けが、近づいていた。
「俺が、犯罪者に育てられた娘を本当に引き取ると思っているのか?」
「アンタが………自分の犯した、罪を、償う気が、あるのなら………大丈夫」
微かに開かれていた、青年の瞳が閉じた。
咳が一度だけ、口の端から漏れるように吐かれた。
「最後くらい………そう、信じさせろ………よ」
かすれた声で、雪の上で青年は言葉を続けた。
「俺たちを………忘れるな………よ」
苦しそうな、胸の上下運動がぴたりとやんだ。
最後に吐き出された白く大きい息が、虚空へと四散する。
バムジェイにはそれが魂の溶けていったように見えた。
煙草を雪の上に捨て、濃い群青にその濃度を落とした空を見上げる。
「…………忘れるかよ」
彼らが残した、その瞳の鋭さを。
これが、家族を結ぶ唯一の絆ならばそれが憎しみでも、構わない。
明け始めた空に、夜の闇から現れた男が一人。
誰にも見られなかったその一筋は、頬を伝い雪を溶かし切った赤い水溜りの上にぽとりと落ちて、見えなくなった。