高い空へと響く、澄んだ音色。
町の中央から幾分か外れているこの場所からでも、聖堂の鐘はいつものように午後二時を告げる。
「ふぅ」
私は持つ刷毛を止めて、首にかけたタオルで汗を拭う。
季節はもう冬支度を始める時期だが、日中の日差しは依然として強い。
しかし、夕焼けと同じ色の枯葉が舞い散る通りは風も冷たく、眼下に襟を立てた人たちが若干足早に目的地へと急いでいるのが見えた。
今日の仕事は知り合いが営む軽食屋の外壁ペンキ塗り。
お昼が出るというので請け負ってみたものの、意外と重労働だ。期限は特に差し迫っていないが、まだ半分近くまでしか塗り終わっていないのは自分としては悔しいところだ。
「ヒロー」
私がいる梯子の上の、もう少し上辺り。
足元かと思っていたら二階の窓から、見慣れた顔がにょきりと首だけ出した。
「おわ」
予想しなかったので、少しだけ梯子の上でバランスを崩しそうになる。
「そろそろお昼だよ……ってなにやってんの」
「お前のせいだよ、こんにゃろう」
「あら、それは御免あそばせ」
軽く睨んでやると、「こんにゃろう」は軽く手を振って笑った。そのついでに見えるこの店のエプロンが遠慮がちにひらり、風に揺れた。
「お前の方は大丈夫なのか」
「お客さんに今日もきれいだよって褒められた」
「違う、客の方だ」
ふとトモヒトじゃこうは言わないだろうなと思いながら、彼女の笑う顔を見やる。本当に笑いの絶えない奴だ。
「ああ、一段落したよ。じゃなきゃ呼びに来ないって」
「それもそうか」
「でも、本当に外で食べるの?」
「ああ」
さすがに知り合いの店と言ってもペンキのついた服で店の中を出入りしたくない。あらかじめ最初に店長の方に言っておいたことだった。
「どうしようか、できたら持って行こうか?」
「頼む」
「じゃあ……私も休憩もらってくるから、一緒に食べよ」
「え」
有無を言わないうちに姿が消えて、「ちょっと待っててね」と遠ざかる声が、窓の奥からフェードアウトしていく。
私はどう反応していいやら分からず、溜息混じりに刷毛を腰のホルダーに下げて、とりあえず梯子を降りることにした。
梯子を降りると、窓ガラスの向こう側で店長のハムラと件の彼女、イリエがカウンター越しに何か話しているのが見えた。実に楽しそうだが、昼食の算段だろうか。
「………」
やりとりを合間合間に眺めながら、色々道具を括りつけるためのベルトを外す。脚立ならともかく、梯子なのでペンキ缶すら置く場所がないから、ベルトは結構な重量だ。
「んっ………」
ベルトを置いて、色々筋を伸ばしながら道の端、崖になって見晴らしのよい場所へ移動する。
坂の多いこの街は、うまくすると坂の上の方から街を一望できる。
ここもそんな場所のひとつだ。
「ヒロ?」
呼び止められて振り返ると、巨大なバスケットを抱えたイリエが笑顔で突っ立っていた。
「…………」
「どうしたの、そんなバカみたいな顔して」
「バカみたいは余計……というか、なんだそれは」
「中身はサンドイッチだよ。手軽に食べられるかなって思って」
そう言って開けられたバスケットの中身は、とてもじゃないが到底二人で食いきれる量ではない。
「おいしそうでしょ。店長の得意料理なんだよー」
「そうじゃねぇだろ」
「え、ああ、量?………店長がヒロならこれくらいはぺろりだからって………」
………私の胃袋は宇宙か。
じろり店の中を睨むと、カウンターのさらに向こう側で、にやりと反応が返ってきた。
それでこそ、私のライバルにふさわしい。
「あとで覚えてろ………」
「さ、店長はほっといて食べよう?私もお腹ぺこぺこ」
「て、え、え?………」
やはりイリエは有無を言わせず、ほとんど店のドまん前に当たるこの場所に、持っていたチェックのシートを広げた。
知り合いじゃなかったら、明らかな営業妨害だ。
「どうしたの?」
そこで問われても、こっちが困る。
「いや………お前らがいいならいいんだが………」
「ああ、それなら大丈夫」
そういって、イリエが指差した先。
入り口になっているちょっと大きめの扉に、ひっかかるように「準備中」の札がかかっていた。
「お店も休憩なの」
「あ、そ………」
こうして、バイトの休憩にしてはやたら豪華な昼食が始まった。
「そういえばいいのか?店の方、ハムラ一人で……準備とかあるんだろ?」
とりあえずバスケットの中身を二人で半分位片付けた頃。
そろそろ休憩も切り上げた方がいいと思って切り出すと、イリエは今食べたベーコンをロクに噛まないで飲み込んだ。
「私が行くとかえって邪魔みたい。とりあえず軽い料理は作れると言っても、下準備はほとんどが店長だから」
「料理人の誇りというやつか」
「それに、本当に用があるときは、分かるから」
妙に嬉しそうに、イリエはえへへとのろけたように笑った。
「………?」
「店長は魔法使いだから」
「魔法使いねぇ………メルヘンチックなことで」
「あ、信じてないな」
いかにも不満、といったイリエに真顔で返してやる。
「言うに事欠いて、あの朴念仁に魔法使いはないだろう」
「あ、ひどい。あんまり愛想はないけど、優しいんだよ、店長」
………それは知ってる。
じゃなかったら、路頭に迷ってたイリエをハムラに預けたりはしなかった。
「付き合いはお前より長いのに、俺はハムラが魔法を使ってるところは見たことないぞ」
自分の心の中だけで最後と決めたサンドイッチを頬張る。
さすが言うだけはあって、具もよく研究されていて美味しいから、半分も食べているという実感がそれほどない。こんなのが賄いで出された日には、やるだけのことをやっておかないと後が怖くなってきた。
そこまで計算されているとは思えないが、ハムラは策士だ。
「そりゃあ、ロクに役に立つ魔法じゃないからね」
「なるほど、恥ずかしくて魔法使いとは人前にはいえないわけだ」
「そういうこと………あー、もうダメお腹一杯。ヒロはまだいけるの?」
「いや、俺ももうダメだ」
「じゃあ、残りはトモヒトさんの分だね」
………やっぱりそこまで計算済みか。
言うが早いが、これ以上食べてしまわないようにとイリエはバスケットを閉めた。
「お店で保管しておくから、帰りに言ってね」
「重ね重ねすまないな」
「なんのなんの。定職もロクにない貧乏人に愛の手を」
「うるせえ。前言撤回だ、こんにゃろう」
人の触れられたくない部分を突き刺しおってからに。
「あ、ひどい、せっかく雇ってあげてるのに」
「俺を雇ってるのはお前じゃなくてハムラだろうが。無駄飯ぐらいがいるんだから、ペンキ塗りくらいお前に任せればいいんだよ」
立ち上がって、パンくずを払うと、むくれたイリエと目が合った。
つくづく、顔がコロコロ変わる奴だ。
「へ……くしゅっ」
「ほら、こんな寒い中外でメシ食うからだ」
「なによ、ヒロが外で食べるっていうから、寂しくないように付き合ってあげたんじゃない」
「頼んでない。それより風邪引くから、そろそろ中入れ」
店の中を見ると、下準備中のハムラがなぜかこっちを見ていた。
まるで私がこれから目を合わせるのがわかっていたかのように。
……魔法?
まさかな。
「………分かった。ヒロもこれから、風邪引かないようにね」
「お気遣いありがとさん。せいぜい割る皿は一桁にしときなよ」
「割らないよ!」
きっ、と軽く私を睨んで、イリエが中に入っていった。
ふと気が付くと、イリエが入るときに直したんだか、入り口のプレートが「営業中」に変わっていた。
−−−
高い空へと響く、澄んだ音色。
聖堂の鐘は、聞く人によっては若干その時節、時間によって音が異なるらしいが、私にしてみれば回数で時刻がわかるだけのものだ。
五回。夜の入りを告げる、最後の音色。それ以降は、うるさいから鳴らさないことになっている。
秋口ともなれば夜の訪れは早く、音色の最後の切れ端を私が拾うころには、辺りはもう細々とした明かりまでもが分かるようくらいの暗さになってしまった。
「ふぅ」
冷え冷えとした空気を吸い込んでは吐き出す、宵の口。
今日のところはこのくらいだろうと勝手に決めて、刷毛を腰のホルダーに納めた。
どうせ一日で終わる量じゃなかったから、明日また来て塗ればいい。
梯子を降りると、店は明るく灯っていてお客の入りも上々らしかった。酌み交わされる酒と笑い声が店内から美味しそうな匂いと共に漂ってくるのが分かる。
「ヒロ」
ハムラが視線に気付いたのか、突然入り口からイリエがやっぱり首だけ出した。
「今日はもう帰るの?」
「ああ、暗くてロクに色が見えないから。明日また来るよ」
「そっか………しかし寒……くしゅっ」
「ほら、早く中入れ。客が待ってんぞ」
「でも………あ、そっか。ヒロ、ちょっと待ってて」
一度店の中を見たイリエだったが、すぐに何かを思いついたらしく、店の中に引っ込んだ。
「………?」
とりあえず腰の重たいベルトを外しながら荷物をまとめていると、しばらくしてイリエが戻ってきた。
「お昼のサンドイッチ、忘れてたよ」
そういって、イリエは昼よりは半分位の包みを、私の前に差し出した。
「あ、ああ」
そういえば、すっかり忘れていた。
受け取りながら、改めてその重量に驚く。帰るまでに荷物が増えた。
「店長が教えてくれなかったら私も忘れてたよ」
「とりあえず、ハムラに礼を言っておいてくれ」
「了解。後は、忘れ物ない?」
まるで母親のような口調だ。
「あったら明日また取りに来るよ」
「あ、そっか。じゃ、また明日ね」
イリエが入り口から手を振った瞬間、背筋が寒気をとらえた。
「………へっくしゅっ!」
「わ」
自分でも驚くくらいの大きなくしゃみに、イリエが声を漏らした。
…………やっぱり。
店の中、カウンターの向こう側であくせく動いているはずのハムラの顔がなぜかこっちを向いて、軽くヒラヒラと手を振っていた。
なるほど、これは確かに魔法だ。
「………偶然じゃ、ないんだな?」
鼻をすすりながら目の前のイリエに問いただすと、イリエもわざとらしく鼻をすする真似をした。
「ま、そういうこと」
[終]