「…………」
際限なく降り続く雨の音に混じって、心持沈んだ聖堂の鐘が鳴いているのに気づく。
店の軒先から中に見える大時計は、ちょうど六時を指していた。
普段ならそろそろ夕食の準備に取り掛からないといけないところ―――
なのだが。
「はぁ………」
手には小降りとはいえ、紙袋が四つ。
その前に、傘を持っていないのが敗因か。
それともこんな日に一週間分の買い物をしたのが間違いだったのか。
「………」
原因を探そうとして、はたと回り始めた思考を止めて雨の音に逃がす。
首筋と足首にひやりとまとわりついてくる冷気を払いのけるように、私は一度意味もなく体をぶらぶらと動かした。
暇だが、後悔しているとこの雨に負けているようで悔しいからだ。
しかし、これといって有効策があるわけでもなく………。
振り出しに戻る。
「………」
「まぁ、気長に行こうや、お嬢ちゃん」
唐突に雨の中、近くで猫のような声がした。
少しずらした視線の先、店の入り口のすぐ横に置いたままだった酒樽の上に爺が一人、膝元に少し大きめの黒い箱を携えて、ちょこんと座っていた。
年のころは初老、夏もいくばくか暑さを抑え始めた頃だとしても、パリッとした黒の礼装は、時と場所にしては、異様の一言。
その前に、私はひっかかった一言を無意識的に反芻していた。
「………お嬢ちゃんだ?」
軽く横顔を睨み付けてやると、「にやり」。
やけに自信ありげな顔がこちらを向いた。
「失礼、兄ちゃんだったか。きれいで長い髪だったんでな、つい女かと思った。かっかっ」
「……うるせえよ」
「まぁ、雨宿りなら気楽に参りましょうや」
「…………」
本来なら、相手にしない類の人間だが、状況が状況だけに、どうしようも出来ない。
まるで、自分一人の世界に誰かが迷い込んできたような感じで、どうも釈然としない。 まだ、何も物言わぬ雨の方がマシのような気がして、かつかつと笑う変な爺を一瞥してから、私は表情をわざと固くして雨の音に聞き入った。
現金なもので、あれだけうっとおしいと思っていた雨は、静かなものだった。
「おめぇさん、どこだね、家」
不意に、雨の音が破られて、不快感が一気に増した。
かといって、答えないのも雰囲気的にまずい。
「………聞いてどうする」
「べーつに。泥棒に入れる齢でもねぇしなぁ」
「………爺さんこそ、どっから来たんだよ」
「散歩の途中で家に帰ぇる途中だよ………ってかすげぇ荷物だな、また。重かねえのか?」
「生憎と、鍛えているんでね」
物量の割に中身が大して重くないことは、この際伏せておくことにした。
「どっかの傭兵かなんかか?」
「そう見えるのか?」
「いんや」
じゃあ言うなよ。
トモヒト相手なら即答していた言葉を留めて、一拍を息とともに飲み込んだ。
「ただの食い繋ぎだ」
「かっかっかっ、そうかい。若いのに大変だなぁ」
「…………」
他人事、といわれればそうだが、踏み込んでおいて笑うとは人が悪い。
「しっかし、止みそうにねえな、こりゃあ」
「………」
爺が見上げる先、分厚い雲の先から垂れる細い糸。
嵐とは言わないが、この距離ならどこまで帰ろうがずぶぬれの勢いだ。
「仕方ねぇ、今日はここでやるか」
本当に仕方なさそうに溜息をついて、爺が膝の箱をこんこんと叩いた。木で出来ているらしく、小気味のいい音がする。
「………?」
「魔法の箱さぁ」
子供のように言って、爺はもち手のあたりについていた可変式のスライドを外して、中身を開いた。
「…………?」
「んでぇ、そんな変な顔しなくてもいいだろよ」
中身を見た私に、さらに変な顔をした爺が中身を取り出した。
箱を樽の棚に置き、取り出した変なものをゆっくりと膝に置く。
楽器屋でよく見るマンドリンのような形をしているが、それが変なのは、弦を鳴らす場所のすぐ近くに、なんか変な箱とハンドルがついていた。
これじゃ、かき鳴らして弾けない。少なくともマンドリンじゃないだろう。
「これ、バイオリン………?」
聞き覚えのあるようなないような楽器の名前を口走ると、爺が眉を偏屈まげて見せた。
「ちげぇよ。どこをどう見たらバイオリンになるんだよぅ」
「こんなもん見たこともねぇんだから仕方ないだろ」
「なんでぇ、楽器店の前にいるからなんかの奏者かと思ったが、そうじゃねえんかい?」
「ただの食い繋ぎだと言ったろ」
「芸術家ってなぁ、一握り以外はどいつもこいつも食い詰めさぁ」
声だけをコチラによこして、爺は左手で箱の辺りのハンドルをくるくると慎重に回していた。
「あいにく、良い悪いくらいしかわからねえよ、音楽なんて」
「聞くほうは、それで十分さ」
右手で弦を一本二本試しに鳴らして、爺はコチラに「にやり」。
「リクエストはあるかい」
「曲をしらねえよ」
「つれないねぇ………んじゃ、軽いのを一曲」
左手でハンドルを回しながら、右手の指が、弦を弾いた。
膝の上に載せられた正体不明の楽器の音色は、静かに、静かに雨の中へ溶け込んで行った。
短い曲が二、三程続いて、演奏中目を閉じていた爺がようやくすっと目を開いた。
「………どうでえ?これでも「この町の音」って呼ばれたこともあるんでぇ」
自信の表れは、これか。
そう思えるほどの「にたり」笑いだった。
実際、それだけの腕は持っている。
「拍手でもしてやろうか」
「もっと誠意が欲しいねぇ……ああ、体が冷えるっちゃねぇぜ」
冗談なのか本気なのか、きひきひと笑って、爺が両手で二の腕をさすった。
「客におひねりをストレートに要求する大道芸人がどこいにいんだよ」
それに、一週間の買い物の後で、正直たいした金は持ちあわせていない。
「普段ならもうちょいあつまんだけどよぅ、今日はおめえしかいねえしなぁ……」
まったく、どうしてこういうのに当たってしまうんだろうか。
袋を腕の片側に寄せてポケットの中に入っていた適当な硬貨を一枚取り出……
して、後悔した。
「お、いいのもってんじゃんかよぅ」
なんで一番でかい硬貨を出してしまったんだか。
「ちょっと待て、これ渡したら生活が出来なくなる」
「そんなこといったらオレッちも今日は飯抜きだぜ」
「じゃあ、勝負だ」
相手の有無を言わさず、硬貨を弾いた。
空中で綺麗に軌道を描いた硬貨を、落下途中、横なぎに捕まえる。
グーのまま、掌の方を差し出した。
「さ………どっちが飯抜きになるかな?」
−−−
「?」
人々の流れに逆らうように、私はついと立ち止まって、もと来た道を振り返っていた。目の前の男が少し驚いたような顔をした後、少し邪魔そうに避けていったが、私はそれをさも当然のように無視をする。
街の中央を流れる大通りではこの時間帯になると、町にこれだけ人がいることを思い出させるほどごった返す。
街の条例で、誰もが自由に露天が出せるのは三日にいっぺんで、その日以外に出す時は通例で商工会議所に届出を出さないといけない決まりになっている。つまるところ、公園で別の地方から来た人たちが時たまやっているフリーマーケットが三日に一度行われていると思っていい。
「………どうしたの、ヒロ」
隣を歩いていたトモヒトが二、三歩前から、同じようにこちらを振り返って言った。
「いや………ちょっと、懐かしい音が聞こえて」
ここは市場の通りの、ちょうど真ん中あたり。露天は軒並み香辛料系の食料品が並んでいて、目当ての砂糖をとりあつかうような場所はもうちょっと先だ。
「音って、歌?」
「いや、楽器。なんか、他と例えようのない感じの奴」
あれから、あの音は時たま、雑踏に混じって聞こえるようになった。
ちょうど耳に届いたワンフレーズは、明らかにあの時、弾いた中にあった曲だった。同じフレーズでも、結局名前を聞き忘れたあの楽器だけは間違えようがない。
今日もまた、どこかで誰かを相手に「この町の音」を穏やかに鳴らしているに違いない。
「これだけ人が多いから、どっかで客引きみたいなんでやってんじゃない?」
トモヒトはさして興味もなさそうに私の「理由」を切り捨てると
「そんなことより、早く行かないといつものとこのお砂糖、なくなっちゃうよ?」
当面の問題を思い出させてくれた。
まったく、貧乏だと立ち止まって音楽聴いている暇もないらしい。
「そうだったな」
「ほら、毎度のこと砂糖なんてすぐなくなっちゃうんだから」
「分かった」
砂糖は、安くなくてもここでは競争率が高い。
砂糖、砂糖、砂糖。
「よし」
私は軽く頭を切り替えると、雑踏の中に混じる「この町の音」に流されるように、トモヒトの横を歩き出した。
[終]