ふわ………。
私は居間のテーブルで大あくびをかますと、読んでいた本から目を上げた。
無意識的に口につけたカップの中身が空だったから。
ふと癖がでて、時計を見ると、時間が二時五十五分。
私はいすから立ち上がると、軽く伸びをして体をほぐす。
くわー………。
静かな音を立てて、トモヒトも窓際で外を見ながら大あくびをしていた。
窓の外は静かに霧雨。空は乳白色でぼんやりと明るいけれど、やっぱり日差しに比べればどんよりと重くて、暗い。静かだけど、この静寂のようなものがなんとなく破壊しづらくて、私たちはバイトがないのをいいことにこんな調子で一日中だらだらしていた。
「トモヒト」
「ん?」
窓の外を見ていたトモヒトが、ぱっとこっちを見た。
「そろそろ三時。お茶にしよう」
「そっか。もう、そんな時間かぁ」
そう私が言うと、のっそりと窓際から立ち上がって、キッチンの方へと向かう。
「あ、私がやるよ。今日は」
「それじゃ、お茶を淹れててよ。昨日バイト先でもらったお菓子があるんだ。つまみ食いしないように隠してあるんだ」
「しないように」、って………。
むしろ自分に危機感を抱いているのか。
「ほら、今日はもしかしたら、お客さんを連れてこられるかもしれないし。つまみぐいしたら減っちゃうだろ」
うれしそうに言うトモヒトに、私は溜息をついた。
「あのさ、トモヒト」
「ダメ。今日こそは、なんといってもつれてくるからね」
いつにないトモヒトの強い言葉に二の句が告げなくなって、私はちょっと複雑な心境のままキッチンに入った。
「いつも、お世話になっているんだから。少しくらいお茶したっていいじゃないか。それにもしかしたら、間近で聞けるかもしれないんだよ?」
そういいながら、踏み台にあがって戸棚の上のほうを探し始めるトモヒト。
私も仕方なく、お茶の準備を始める。
「でも、見ず知らずなんだよ?変な人だったらどうするの」
「その時はその時だよ。とりあえず、こっそり伺ってみて、外見で判断してみよう」
何気にひどいことを言うトモヒト。
「とりあえずまともそうな人なら、直接住民に殴りかかるなんてことはないだろうからね」
「それは安直じゃない?」
「そうかなぁ……あ、あった」
戸棚の中を捜索し終わって、トモヒトが小さな箱を取り出した。
「試作段階で合えなく失敗したクッキーたちです」
「っていうか、見ず知らずの人間にそんなもの出して大丈夫なのか」
「あ、失敗したって言っても、形がいびつで売れなかったものだし。ほら、あのパン屋さん、今奥さんがお菓子作りに挑戦してるから。よかったらっていったんで、パンの耳と一緒にもらってきたんだよ」
「売り子ならともかく、ペンキ塗りだろ、お前の仕事………」
「まぁ、仲良くなっといて損はないよ。きっと」
箱を片手に踏み台を片付けて、トモヒトは鼻歌交じりに私より先に居間へと引き上げていった。
その時。
マンションの二階の端あたりから、引き絞るような高い音が鳴る。
私は音に詳しくないからよく知らないけれど、これがたぶんチューニング、っていうんだと思う。
私もお茶をとりあえず三つ淹れ終えると、いつものように砂糖とカップをトレーに載せて居間へ引き上げた。
雨に混じって遠くから聞こえる三時の鐘の音にあわせて、壁の向こうから音色がかなで出される。
素人判断では難しいが音色は間違いなくヴァイオリンのそれで、時折間違えるのが未熟で可愛い。おそらく始めてからまだそんなに日が深くない。
「うん。なんか今日は調子がいいね」
箱の中にクッキーと一緒にはいってた袋からパンの耳をつまみ、トモヒトがうれしそうな顔をする。いつも音がかすれてしまうところが、今日はすんなりとうまくつながった。とりあえず曲の始めくらいは、何度か聞いていると覚えてしまうものだ。
「………まぁ、確かにうまくはなってるわな」
私はもってきた茶をすすりながら、トモヒトの差し出したパンの耳を食べた。
この奇妙な演奏が始まったのは、ここ二週間ほどの話で、三時きっかりから四時半ぐらいまで、同じような演目が続いた後、ぱったりと止む。これが毎日、飽きもせずに続いている。
このアパートはボロいので、大家と私たち以外には住民がいない。
最初はトモヒトが「お化け」と大いに怖がったのだが、実際確認しないまま、二週間が過ぎてしまって日常になってしまった、ということだ。
私も同じ曲が何度も同じ時間に続くのは別に「壁の鳩時計」と似たようなものだったので、ほっぽいておいた。
「さて、そろそろ行くか」
トモヒトがクッキーをいくつか分けた載せた皿とカップを載せたトレーを持って立ち上がった。怖いものがダメなくせに、いざ好奇心が働き出すと、私の注意も聞かなくなるのが困り物だ。
もはやとめても無駄なので、私はひらひらと手を振った。
「がんばってねー」
そういって、また文庫に目を落とそうとしたとき。
トモヒトが私の手をつかんだ。
「なにいってるの、ヒロ」
「………お前こそ何をしているんだ、トモヒト」
「ヒロも来るんだよ」
「なんで私が。私は反対なんだよ?」
「だって、怖いもん」
「……………」
雨のせいかどうかは知らないが、私はもはや怒る気もしなかった。
ぎしっ。ぎしぎしぎし。
「ヒロ、もうちょっとゆっくり」
こそこそ声で、後ろからトモヒトがささやくように言った。予想通り、トレーの茶がこぼれそうだ。
「それなら、トモヒトが前を歩けばいいだろ。トレーは私が持つから」
「そ、それはダメだよ、怖いもん」
「………行くぞ」
行くといったって、私たちの住んでる部屋の反対側だ。ものの廊下の端から端まで数十歩程度。
あっという間に反対側の部屋までたどり着いた。
間違いなく、ここからいつものヴァイオリンの音がしている。
私がノックをすると、ヴァイオリンがぴたりと止んだ。
代わりの返事も返ってこない。
「………どうしたのかな」
「とりあえず、開けるぞ」
「う、うん」
緊張した面持ちのトモヒトを後目に、私はためらいもなくそのドアを開け放った。
「……?」
私たちと同じ構造の部屋だが、やはり空き部屋を誰かが無断借用でもしていたらしく、そこには生活感がまるでない。
しかし。
「………あれ」
どかどかと中に入った所で、トモヒトが唖然としたままつぶやいた。
「誰もいないようだな」
私が事実をつぶやくと、トモヒトの顔が青ざめた。カップからお茶がこぼれる。
「な、ななな……なんで?」
「知らない。大方、無断で借用しているところを大家になんか言われると思って隠れたんじゃない?」
私たちが居間にしているところで、私は辺りを見回す。
「それか………」
「わーっ、言わないで言わないで!」
激しく茶がこぼれる。
「でも、幽霊にしては実害がなさすぎるよ」
「言っちゃダメだよ!ヒロ!今に襲い掛かってくるよ」
そこまで激しく反応することなかろう。
今の所そこそこのレベルのヴァイオリンを決まった時間に披露しているだけなのだから。
「それに見に行こうといったのは、誰だ」
「うっ」
「とりあえずいないのなら仕方ない。帰ろう」
「う………うん」
私は震えて持てなくなりそうなトモヒトからトレーを受け取ると、先にトモヒトを促して部屋から追い出した。
「………探す気はないし、別に大家に言うつもりもないから。これ、パン屋でもらった残り。あと、あの子怖がりなだけだから、気にしないで」
とりあえず、これは独り言。
私自身、実感がわかないが、姿がない以上は幽霊みたいなものだ。
トレーから皿ともはや半分になったお茶を玄関先におくと、私は今度こそ部屋から出た。
部屋に戻ると、ちょっとだけうなだれたままのトモヒトがいすに座ってうつむいていた。
「なに、謎のヴァイオリニストの正体が幽霊で残念?」
「そ、そんなことはないけどさ………でも、ちょっと怖い」
「年がらもなく情けないこと言うなよ。それに、もしかしたら突然始まったんだから、突然終わることもあるかもしれないだろ?」
私は席に座りなおすと、パンの耳をつまんだ。
「さ、こっちはこっちでお茶を飲も」
「………うん」
やっとこさ、トモヒトの顔がほころんだ。
世界には知らないほうがいいことだって、たくさんある。
知るべき時に学ばないのはドアホだが、知ってはいけないことにわざわざ首を突っ込む必要はない。
数日後、バイトの帰りに入り口で大家に出くわした。
なんかすげぇ顔してる。
「こ、こんばんわ」
「おう。ヒロ、今月こそは………」
「え、ええ……月末までにはなんとかしますよ」
今月もきついですよとは口が裂けてもいえない。
「あ、そうだ。おい」
苦笑いで通り過ぎようとする私を、大家が呼び止めた。
「な………なんですか?」
「お前んとこのちょうど向かい側に、人がはいることになったからな」
「え………?」
「なんでも流れの楽士らしくてな。しばらくいるらしい。とはいっても、金稼ぎでロクに家には帰らんと言っていたがな」
流れの楽士………。
流れがヴァイオリニストとは、いささか奇妙な話だ。
いっそ、幽霊の方がまだ信憑性がある。
階段を登って、何気なく騒ぎのあった端の部屋を見ると、ドアの前に空になった皿とカップがきれいに重なって置いてあった。
「………」
食器を拾い上げると、その一番下から紙切れが一枚。
【ごちそうさま】
だいぶ落ち着いた字で、その人の品格が伺える。
「……………」
いろいろ聞いてみたい気もしたが、謎のヴァイオリニスト幽霊はしばらくはここを根城にするらしいようだ。
トモヒトに言ったら、どんな顔をするやら。
私は驚いたり極端に怖がり出すトモヒトの顔を思い浮かべながら、反対側の、自分の根城へと引き上げて行った。
まぁ幽霊にしても、楽士にしても。
とりあえず、住居の不法侵入については、今の所何も言ってこられてはいない。
[終]