かざみどり・1



 かざみどり、かざみどり。
 特別になった木曜日の放課後は、最初に自分へのまじないを掛ける。
 注がれた紅茶の水面に映る、自分の顔へ向けてそう何度も言い聞かせる。
 自分が一時、自分すらをも欺くために必要な、忘れてはいけない暗示。
 かざみどり、かざみどり。

 僕はどこへも行けず、ただその場で回るだけの"かざみどり"。

   ―――

 年代物の古びた木製の引き戸が開く音がして、紅茶の深い赤銅の水面が揺れた。紅茶に映していた自分の顔も揺れて崩れ、僕はまじないを辞めた。
「上嶋」
 邪魔してくれた引き戸の方から、同じ図書委員の高坂が携帯を片手に半分顔を覗かせていた。
「ん」
「委員長から連絡。今日、部活の緊急招集で依頼人共々十分くらい遅れるって」
「………了解」
 短く切って息を吐くと、高坂が片方の眉をあげて怪訝そうな顔をした。戸を開けたまま、近づいてくる。
「相変わらず景気悪そうな顔してんなぁ、まったく」
「うるさいよ」
 不機嫌を隠さず言葉と態度に載せると、高坂は面白そうに笑った。
「これから女の子が来るってのにそんな態度じゃ嫌われるぜ?それに、今日来る依頼人て、上嶋のクラスメートなんだろ?」
「らしいね」
 僕は高坂を無視して、傍にあった本を引き寄せる。タイトルは「たのしい形而上学入門」。本のカバーの色からしてあんまり楽しくは無さそうだった。
 ぱらぱらと中身を見て、やっぱり理解できそうも無いことを理解する。こんなもの、誰が図書室に頼んだんだろう。
「らしいね、って、誰だか知らないのか?」
「知らないよ。そこまで聞いてない」
 食い下がる高坂にトドメの一発を叩き込むと、高坂が溜息をつくのが聞こえた。実際同じクラスで委員長と同じ弓道部と言われれば大体幾人かに絞れはするけど、それ以上追及する気にはどうしてもならなかった。
「これだから上嶋は………ちゃんと相手の素性を知っておかないと、うまいトークが成り立たなくなっちゃうよん?」
「僕は別にうまいトークをしたいわけじゃないんだけど」
「またまたぁ。これを機にクラスの女子と仲良くなれるかも知れないじゃん。そしたら俺にも誰か紹介してくれるよな?親友」
 ………さっきからやけにテンションが高いのは、やっぱりそういうことか。
「あのなぁ、高坂」
「うん?」
「そういう淡い期待は、胸のうちにしまって腐らせといてくれ」
「欲が無いなぁ、上嶋は。あ、さては」
「…………今度はなんだよ」
「彼女か?俺と言うものがありながら、彼女がいるのか?」
「人聞きの悪いことを立て続けに二つも並べるなよ………どっちも無い」
「なーんだ。上嶋はただのムッツリスケベか」
「………後でキレイに殺してやるからな。ちゃんと終わるまで待ってるんだぞ?」
「うわ、目が笑ってないよ、こえー」
 本気で怖がってない高坂に溜息を返すと、僕は人肌よりさらにぬるい感じになった紅茶を、一息で飲み干した。
「あれ、紅茶飲んじゃったけど、いつもの瞑想は終わったん?」
「お陰さまで」
「いっぱしの占い師みたいなことしちゃってまぁ、義理堅いっつーかなんつーか」
「うるさいよ。それっぽく見せるにはそれっぽい気持ちにさせるのが重要なの」
 自分の顔を映して暗示を掛ける。たとえそれがナルシストみたいだとかいわれても、それなりの成果が上がっている以上は無碍に出来ない。
「なるほどね。それで今日やってくる子羊さんの切実な悩みを聞いてあげる振りをして、弱みをがっちりとキャッチと」
「高坂」
「あん?」
「次同じ事言ったら、委員長が作った特製ウイルスメールを携帯にイヤと言うほどぶち込んでやるから覚悟しとけよ」
「そ、それはイヤだ!ひどい!あんまりだッ!」
 経験したものにしか分からない苦しみを思い返して、高坂は喘いだ。先月、図書委員長の佐野先輩の実験台にされていたはずだ。
「そんなに酷い代物だったのか………」
「あんなえげつないの作るのは先輩以外にはいないだろうな」
「誰がえげつないって?高坂クン」
 戸口の方から鋭く、低く、幾らか冷たさを装った声がして、高坂が凍り付いた。タイミングがあまりに良すぎるところを見ると、出る機会を伺ってたらしい。
「え、あ、いや、そのー………先輩、おはようござい」
 高坂の作り笑いと必死の挨拶は彼のメールの着信音によって掻き消された。
「おはよう。高坂クン。精々解除、頑張ってね」
 佐野先輩が笑顔で高坂の肩を叩くと、その拍子に真っ白になった高坂が崩れ落ちた。
「そんな………またあの恐怖が」
「今回はテトリスを得点の上限まで叩きださないとメールが見られない設定にしてみたから頑張ってね」
 佐野先輩は灰になった高坂の襟首をつかんで、ずるずると戸口に向かって引きずりはじめた。
「ん、なんか言いたそうだね。上嶋クン」
「………いえ、なにも」
 何か言ったら、テトリスが待っている。
「あ、それはそうと。連れてきたからあとよろしくね」
 意地の悪い笑顔をした先輩に、心の中で毒づきながら戸口の方を見やる。
 ………同じクラスで、先輩と同じ弓道部の女の子。
 嫌な予感というのは、こういう時に限っては当たるらしい。
 確信に変わった視線で睨みつける戸口には、クラスでも"天敵"の部類に入る加納舞子が驚いた顔で僕を見つめていた。