猫が月へと帰る夜・前編



「あー…………」
 溜め息交じりに放った声とほぼ同時に、私は足を止めた。
 視線の先に見えるのは、雨の降る町並み。
 そして、私の手には………傘がない。
 大学からの帰りのついでで、傘を研究室に忘れてきた。
 気づいたのは列車に乗って雨が降ってきた後。
 そして案の定、駅員さえ一人か二人くらいかの本当にちっちゃい田舎駅で、俺は立ち往生している。

 駅舎の屋根の端からぽたりぽたりと落ちる雫を横目に、私は電話で教授に頼まれた品物を足下に置いた。

「はぁ…………」

 自然と溜め息が口から漏れる。
 傘を売ってる店もここらにはなさそうだ。むしろ、駅前だと言うのに店の様な建物がまるで見えない。
 少し高めの生垣に囲まれた家々が軒を連ね、迷路のような道が続いている。

 誰もいない場所で、雨の音だけが静かに世界を支配する。

「…………なぁ〜お」
 突如、その静寂を打ち破る音。
 気が付くと、ずぶ濡れになった猫が駅舎の反対側の縁でぐったりと丸まっていた。少し太めだがきれいな毛並み。顔も何となくころころしている。
 その毛並みの間から視線がゆっくりとあたりを見回して、やがてこちらに気づいた。
「…………」
「………………」

 ぷいっ。

 さして興味もなさそうに、彼は私から視線をそらした。
「なっ」
 思わず声に出すほど、腹が立つ。
 なんで雨だけじゃなくて猫にまでフラれなければならないのだ。

 悔しいので、彼がもう一度こっちを見たのと同時にすごい視線で睨み返してみる。

「…………」
「………」
「……」

 自分が阿呆なことをしていることに気付く。

「ああ、なんで雨なんて降ってんだ………まったく」

 いらだちを雨にぶつけると、それを合図にして猫がすっと立ち上がった。
 しずくがぽたりぽたりと地面に黒い影を落とす。

「もう行くのか?」
 誰もいないのをいいことに、声を掛けてみることにした。
 意外にも律儀に、彼はくるりとこちらを一度振り向いた。

「…………」
「………」

 ぷいっ。

「……………」
 足下に唯一投げるものがあったが、これを投げると間違いなく教授に殺される。
 猫はそのまま私に背を向けたまま、雨の中を足早に去って行く。
 こちらを見向きもせずに、ただ黙々と自分の目的地へと消えていった。

「……………」

 そしてもう一度、私は雨の音に包まれた駅舎に取り残された。

   −−−

 どれくらい経ったろうか。
 次に雨の音を破ったのは、列車の音だった。

 しばらく止む気配がなさそうなので、駅舎の中のベンチのほうへ待避していると、列車が小さなホームへと滑り込んでくるのが見えた。

 スライド式のドアが開く。

 人が降りている気配どころか、見える位置から人が乗っているような様子すらない。
 その代わり、電車のドアの縁から改札口を小走りで通りぬける小さな影。
 猫が数匹、電車から降りて、無人の改札を足早に駆け抜けていった。

「……………」

 いや。
 改札に、いつの間にか駅員が突っ立っていた。
 私と同じ位の年で、だいぶほっそりとしている。駅員の制服がよく似合っていた。
 そんな青年が、こっちを向いて怪訝そうな顔をしていた。
「そんなところで………どうしました?」
 切符を回収するその場所から、駅員が物珍しそうな表情でこちらをのぞいてくる。
「あ、いや………その。この雨でしょう、傘がなくて困ってるんです」
 嘘を吐いてもしょうがないのでありのままを答えると、青年は笑った。
「その荷物、届けものでしょう。どちらまでおいでになるのですか」
「………白峰博士をご存じですか」
 名前を聞くと、青年は納得したようにうなずいた。
「ああ。あの山の麓に住む人ですか。色々と有名ですよ」
 やはり、教授先生と言うのは近所でも有名らしい。
「この辺もあまり住む人がいなくなりまして。だいたいわかりますよ」
「そうですか」
「よろしかったら、傘をお貸ししましょう。また、こちらへ戻ってきてくれる時に返してくだされば良いですよ」
 願ってもない申し出だった。
 私は頷くと、一度駅舎の中へと引っ込んだその駅員から、傘を受け取った。
「ありがとう、助かります」
「いえ…………ああ、そうだ。今日……帰りはいらなくなるかも知れませんね」
 ふと気づいたように言う青年に、私は問いを返した。
「なぜです?」
「たぶんですけど、白峰博士にお会いになるのでしたら、わかると思いますよ」
 青年は、どうにも表現のしづらい声で少し笑うと、元の顔に戻った。
 その仕種がなんとも怪訝で、隠されている事に少しわだかまりのようなものを感じる。
 しかし、傘を借りた今、とりあえずお遣いの目的を果たさねばならない。
「では、ありがたく」
「はい」
 私は、青年のいる駅舎から、教授の家へと歩き出した。

   −−−

「………弱った」

 一度、歩を進めていた足を止めて、その場に往生する。
 駅から出るなり、雨足が強くなって来、自分が生来の雨男であることを思い出し始めた頃、靄がかかりだした。
 視界が若干利く方なので覆われてはじめた頃はまだ教えられた道筋どおり歩を進めていたのだが。

 教えられた道筋とは、若干異なる選択肢が現れた。

 八つ目の分かれ道は確か右へ逸れる道と、左のちょっとした勾配を上がる路だった。
 教えられたことを書き記した紙を取り出すと、確かに、字面はそうなっているのに。
 だが、目の前に広がっているのはまったく逆で、左で大きく逸れる道と、右の勾配へ続く上り坂らしかった。

「………」

 どこで何を間違えたか。
 聞き間違えか、角を曲がる順番か、それともどこかで外れたか。

 ただでさえ、一度では覚え切れなかった教授宅への路だ。
 迷路のような路なりの先が白く、そして暗く覆われ、霞がかった世界がひどく不安をかきたてる。道筋は再三確認したものだが、元々訪れたことのない地であるため、本当にこの路でよいのか、はたして不安にも思う。
 路を聞こうにもこの雨と霧では、往来を通る人影もおらず、またいたとしても見つけることができないでいた。

 外れたのなら分かるところまで引き返そうかと思ったが、ここまで来てしまえば帰るのも逆に危ない。

「……」

 溜息混じりに、頭へ一度手櫛を通す。
 さて、どうしたものか。

 その時だった。

 白いもやの中から現れたような、白いカタマリががもそりと足元をすり抜けた。

「っ」

 驚いて一歩後ずさると、その白いカタマリは、一度こちらを振り返ったように見えた。
 そして、自ら光っているかのような二つの翡翠色の光が、こちらを見据える。
「………?」
 見覚えのある図体と、ふてぶてしい顔は、先ほど前を先行して消えて行ったあの猫だった。

「お前」

 なぁーお。

 退屈そうに私の声を打ち消す、欠伸を織り交ぜたようなその声。
 雨に打たれて、その身体は既に白いもやの中に半分溶けてしまった様だった。

 にゃぁ……。

 それにしても、よく鳴く猫だ。
 いや……啼いている?

 急に、猫はついっと空を見上げると、こちらを一瞥し、右の方へ走って行ってしまった。

「………あーあ」
 また、置いていかれてしまった。

 ひとしきり降り続ける雨。
 このまま立ち往生していても仕方がない。
「……よし」
 これもなにかの縁だろう。
 私は荷物を手の中で一度持ち返ると、猫の走り去っていった右側のもやの中へ突き進むことにした。