猫が月へと帰る夜・後編



  −−−

 しばらく歩いて、自分が森に入ったことに気付いた。
 雨が小降りになった代わりに、靄は霧になった。
 相変わらず見通しが悪く、山道に近い路に近くなってきたためにまるで山の天気のように風の流れが変わる。
 太陽があるならまだしも、霧では木々が近くにあるのさえ間近に迫るまで分からない。

 路の先はぬかるんでいたが、幸い轍が強くその跡を残している。
 これをたどればなんらかの出口にはたどり着くはずだ。
 舗装もなにもされていない路を、轍に溜まる水溜りに沿って、ただひたすらに進む。

「…………」

 遠くで、鳥の鳴く声。
 雨の音が間近で。
 その中央に、木々の重い葉擦れ。
 視界の利かないところでは、耳が自然と遠くまで音を拾う。

 音がするのに、恐ろしいまでに「静か」だった。

 ここにいてはいけない。
 なにかが、そう訴える。
 歩き続けなければ………この轍の、長い水溜りの先へ早くたどりつかなければ。

 ………白い霧の向こう側に、何かがいる。

 ばしゃん。

 足元の轍と繋がった深い水溜りに足を突っ込んで、私は我に返った。
 その瞬間、はたと気付く。

 ………とめてはいけない足を、止めてしまった。

 急に、音が止まった。
 残っていた遠くの音が全て、鳥の声も、葉擦れの音も。
 全てが、白くくぐもったまま、ただそこに「留まっていた」。

「………」

 背筋に冷たいものが走る。
 霧のせいではない。

 ………ぉ……。

 遠い、遠いところから。

 なぁー……ぉ。

「………」

 向こう側から、声が、する。

 私は、ガチガチに震えた足を、水溜りから引き上げて、足早に歩き出した。
 荷物が予想以上にかさばってしまって、走れなかった。

「とにかく、轍を……」

 流れが、変わった。
 遠くを遮る霧。
 近くを流れる靄。

 私は視界の全てを今度こそ本当に失った。

 轍さえ見失った今、進路を決めるものがない。戻ることも出来ない。
 足元に、水があるのかどうかも、もはや分からないのだ。

 流れが切れて、靄と霧が薄れるのを待つしかない。

 そもそも、あの猫について行こうと決めたあの分岐から何かが変だった。
 猫のせいにするわけではないが、あの時無理にでも一度戻っておくべきだったのだ。

「くそ………」

 荷物が重い。手の中で何度も持ち直しては位置を代え、なんとかやってきたがこれ以上は腕よりも肩が痛くてしょうがなかった。
 順当に歩けば三十分はかからない、と言った教授の話を思い出す。
 その三十分はおろか、たぶん一時間は歩いて立ち止まっていたと思う。

 そして、まだ先の見えていないことが、私を不安にした。

 なぁーお。
 なぁーお。

 全ての音の代わりに聞こえてくるその声は、次第に大きさを増していた。
 しかも、数が増えている。残響ではなくて、確かに重なっていたり、声自体が違うものも多数。
 ………おかしい。

 こんな森の中で、猫がたくさん、何をしていると言うのだ。

 なぁーお。

 皆、一斉に何かを求めて啼いているように聞こえる。

 にゃーっ。

 そして、音が大きく、確実に近づいているのが分かる。

 にゃーん。

 こっちは動いてないのに。近づいてくるように聞こえるなんて。
「っ」
 奇妙な予感がして。
 『予想通り』、全ての流れが変わる強い風が吹いた。

   −−−

 一気に、視界が開けた。
 私は、森がぽっかり開けたような、空地のような空間に一人放り出されていた。
 足元には、轍の代わりにうっそうとした草が足首の辺りまで生えていて、そこだけ晴れているかのようにして周りには霧をまとった木々がまるで白い水の中に浮かんでいるように漂っていた。

 そして。

 目の前に、池。

 その水面の上に、十数匹はあろうかという猫が波紋を立てながら浮いていた。
 ついさっき現れた私のことなど気にかけず、ただそれぞれが晴れ上がる夜空と月を睨むようにして見上げている。
「………」
 私は、息を呑むことで、目の前の状況を理解しようと試みる。

 これはなんだ。
 ……なんなんだ。

 猫達は一斉に空へ向けて泣き声を併せ、月へ吠えると、水溜りの向こう側から、小さな小さな水泡が、水面から浮き出るようにして水気の強い空へ浮き出た。

「………」

 その中へ一匹が入り込んだ。
 水気を帯びたその毛並みが弱弱しく、また脆弱な四肢を力なく折りたたみ、そして、重そうな眼を閉じる。

 猫達は、もう一度、それぞれに声を上げて鳴いた。

 次の瞬間、草叢が大きく波打ち、風がこの空間だけを切り取ったかのように巻き上がる。相も変わらず、霧は飛ばない。

 ふわり、シャボン玉の中に囚われたような猫の身体が、空へと浮き上がる。

「あ……」

 夜空へ吸い込まれるように。
 眠りで眼を閉ざした猫が、静かに宵闇へ吸い上げられてゆく。
 やがて、そのシャボン玉は月の明かりめがけて、霧の向こう側へと飛んでいった。

 猫達は、思い思いに声を高らかにあげて、泣いていた。

「………」

 なぁーお。

 いつの間にか、靄をこねて作ったような白い毛並みが足元でこちらを見上げていた。
 お前がいる場所ではない、と言っている様な気がする。
 猫は、つい、と霧の向こう側を指した。
 また、この霧の中へ往けというのか。

 猫は目を細めてこちらを見た後、ゆっくりと私を促した方向へ歩き出した。
 先ほどと違って、足早に駆けていく、といった感じではなかった。
 ゆっくり。
 一度、霧の壁の前でこちらを振り向くと、軽く鳴いた。
『ついて来い』
 私は、無言のまま頷くと、その白い猫を追って再び霧の中へと迷い込んだ。

   −−−

 いつの間にか、雨が上がっている事に気付いた。
 霧も段々と晴れてきて、足元に不思議とさっきよりも確かな感触が合った。
 滞っている空気の変わりに、少し強い風が全てを押し流していくようだった。

 そして、まだ鮮明でない目の前を先導するかのように鳴き声が続いている。

 色々な想像が頭をよぎったが、今はとりあえず猫に従った方がいい。
 これ以上の上策もなく、私は延々と鳴き続ける猫に付き従うように徐々に輪郭を現し始める山道を進んでいった。

 霧が晴れていくにつれて、路や、周りの木々や、その他からりと晴れて黒くなった空とかが見えるようになっていくと、段々と猫の声が途切れ途切れになり始めた。

 そして、見覚えのある、見覚えのない路へたどり着いたところで、その白い猫は立ち止まっていた。

「お前」

 私が言いかけた言葉を、猫はただ何も言わずに遮り、その憮然とした顔のまま。
 最後に残っていた霧をまとい、強く吹いた突風で、目の前から忽然と姿を消した。

「…………」

 見覚えのある、見覚えのない路。
 右側へ大きく逸れる道と、左へ登る勾配の路が、八つ目の分岐として私の目の前に広がっていた。

   −−−

 私が教授宅に着いた時には雨の気配はまったく消えていて、とっぷりと暮れた空には丸い月があの時のように浮かんでいた。
 古風というよりはなにかでそうな雰囲気の館の呼び鈴を押そうとした瞬間。

「遅いから待ちくたびれて、先に『お葬式』へ顔を出してしまいましたよ?」

 何か嬉しそうな顔をした白髪の初老が、首にタオルを巻いて私の後ろに突っ立っていた。

[終]