−静宮有香−
「え?」
一瞬、追い抜いた彼が何を言ったのか、私は理解できずに階段の踊り場で振り向いた。
階段の五、六段上から、顔見知り程度のクラスメートの顔が、ほのかに緊張しているのが分かる。
意味を理解するまで、私は「普段どおり」彼をにらみ上げた後。
「…………なんの冗談?」
溜息を一つ吐いて、出た結論を目の前の篠田に切り出した。
自分がクラスの人間にどう思われているかくらいは、知っている。
だから、その上の話なら取り合う余地はない。
……何の罰ゲームかは知らないが、くだらない。
「悪いけど、そういうのに付き合ってる暇ないの」
「ちょ、ちょっと待った、待ってよ、静宮さん!」
立ち去ろうとする前に肩をつかまれて、強引に引き戻された。
痛みが走ったが、顔に出すわけにもいかず、再度振り返ってにらみつけてやる。
「まだなにか?」
「ちょっと、待って。これは、冗談とか、そういうんじゃ」
篠田の顔は、いつも端から見ているのとは違って必死に見えた。
でもそれが余計、演技に見える。
「だったらなに?しつこいのは嫌いなの、これでいい?」
「よくない!」
異様に感情のこもった声に、振り払おうとした手をつかまれたまま、私は押し黙った。
廊下まで聞こえていると思ったが、少し移した視線には、誰も来る様子はない。
相変わらずこの場所には、私と彼だけだ。
「………」
咄嗟につかまれた手を、篠田がそっと離してくれた。
「怒鳴って、ごめん。でも」
「……………」
「嫌いなら、嫌いでいいけど、冗談と思われるのは、ホント嫌だから」
淡々と紡がれる、震えた声。
「篠田………」
かけた言葉で、篠田が気をつけの姿勢で俯いた。
「もし、良かったらで、いいから………」
少なくとも、私はこんな彼を見たことはない。
私がかろうじて知っているのは、いつも教室で楽しそうにしてる彼だ。
今にも消え入りそうな声に、私の心が後ずさる。
………冗談じゃ、ないの?
………信じても、いいの?
疑念が、頭の中で回る。
でも、それはもう一つ、頭の片隅に在る想いを呼び覚ます。
今のクラスなんかに、興味はない。
でも篠田をかろうじて知っているのは、ついでに見ていたからだ。
あの人を。
「…………」
「あ!………でも、今じゃなくても」
「ごめんなさい」
言いかけた篠田の言葉を、私は最悪のタイミングで遮った。
こうすれば、相手は私以外で傷つかずに済む。
呆けたように、私の顔を見て長い一拍。
そして、大きく息を吐いた。
「そっか………」
その落胆振りを隠すように、篠田は一度、軽く笑った。
自分が与えることになるとは思わなかった傷は、見ていて痛い。
でも、なにか言い訳をしたら余計に傷を抉ってしまいそうで、私はただ何も言えず、その場に立っていた。
「………ありがとう」
「え?」
「ダメなのは、なんとなく判ってたんだ」
力なく笑う彼の言葉は、鋭く突き刺さる。
「…………静宮さん、ホントはさ」
言われる前に、私は小さく首を縦に振った。
ここで嘘をつくのは、彼に失礼だと思った。
「なんで」
「視線が、どことなく追ってたから。はじめはもしかしたら自分かも、とかうぬぼれて思ったんだけど」
冗談めかして、彼は言ってくれた。
「だから、チャンスをあげるよ」
「え………?」
「君は心配そうに、僕の付き添いを演じていればいいよ。先生は忙しいだろうから、ほとんどつかないはずだし、チャンスは来るよ」
意味不明な説明をしながら、篠田はこれでもかというくらいに笑った。
その顔は、紛れもなく悲しみを湛えていた。
「後は、君次第だ」
そう思った瞬間―――。
ぐらり、彼の体が傾いだまま。
傾いだ先の、階下へと。
「ッ…………」
『逃げられた』
確信を持って、言える。
想いを私に押し付けたまま、彼は階下へと落ちた。
脅しにも似たような行為を以って。
「…………篠田」
階下から女子生徒の悲鳴があがるまでの間、私はただ動けないまま、篠田を呆然と見つめることしかできなかった。
[終]