-3-
児島の怪我は、上を目指してテニスを再開するのには絶望的という程でもなかった。
ただ、前十字靭帯損傷で全治半年という診断は、高校三年の最後の大会を全て棒に振るには十分な結論だった。
前々からひどかった痛みに対して無理をしたのが全ての原因らしいが、学校初と言う過度の期待を裏切るには児島は真面目すぎた。
今なら分かるが、県大会なんてものが夢のまた夢だったテニス部の残りの俺たちからすれば、ちょっとざまあみろと思ったのも確かだ。それは外野が抱く単なる妬みで、彼の葛藤や苦労なんぞ、何にも分かっていなかったからできた芸当だ。
だから俺は、彼不在の春の大会が惨敗に終わったその日、彼が退部届けを出したテニス部の部室で一人泣いていたことなどは知らないことになっている。
児島は俺を何も知らない。だから俺も、児島の苦労などは、何も知らないのだ。
世の中には往々にして無茶苦茶な奴が居る。
無茶苦茶と言ってもいきなり打った球が分裂したり、それを気合いと根性で跳ね返したりするワケじゃない。そんなことを出来る奴が居たら逆に見てみたい気もする。
「はぁ………はぁ………」
俺は今、なんで肩で息を切っているんだろう。
実力は相手が上だが、弱点が丸見えになるほど疲れて手負いのはずだ。
「手負い………そういや手負いなんだよな、アイツ」
手負いって、どういう意味だったっけ。
何だコイツは。
膝が完治したのが先月だとしたら、たった1ヶ月で………どんな練習したんだよ。
キャップから流れてきた額の汗を拭う。昼を迎えつつあるコートは冬なのに陽射しが痛くなってきた。
あれから児島の弱点は狙われているのが看破され、あの一撃以外は対応された。あれから2回ほど似たようなチャンスが現れたが、一度目は完全に回り込まれてフォアハンドで返され、二度目はこちら側の奥ギリギリにロブを返された。
『6-5』
なんとか流れが来ている間に3連続得点で逆転には成功したが、今の競り合いを取られた。
後1点で勝てるのに、楽々勝てるとかそういう雰囲気は微塵もなくなっていた。次取られたら、6-6でデュースが始まる。
今の児島は、どんなに振り回そうがバックサイド側に叩き込もうが、ねじ伏せられるイメージがない。
足がダメになっているならネット際で戦う選択肢もあったが、ネット際で激しく打ち合うのは俺の方が得意ではなかった。
どう守ってどう攻めたらいいのか、頭がこんがらがる。もう、勘と可能性と賭けに近い。
サーブは、再び児島。
取ったら勝ち。取られたらデュース。分かりやすい。ホント、冗談じゃない。
公式戦でもない、ただの市民大会の1回戦。たったの1セットで、相手は手負い。
それなのに苦しい。苦しくて仕方ない。
でも、ここまで来たら勝ちたい。負けるつもりは、毛頭ない。
相手も負けるリスクをかけて勝つために、ここに立っているのだ。相手の足が痛んでるなら、それは同情するべき所じゃなく、叩き潰すチャンスだ。児島が怪我明けだろうがリハビリついでだろうが、関係ない。
荒れる呼吸を無理矢理押し込め、次の一球を待つ。
どんな球にでも喰らい付いて、対応してリターン。それで、終わりだ。
目を凝らして待った数瞬、宙に浮いたボールが、ラケットの中央でひしゃげた所までは見えた。
そして、ボールは今度こそ本当に、視界から消えた。
---
「楽しいな、ミヤ」
コートチェンジですれ違い際、児島が言った。
俺は立ち止まって屈み、シューズの紐を一度解く。
「………お前の相手なんて、重苦しくて仕方ねえよ」
試合前の緊張で固く結んだ紐はなかなか解けなかった。あごから汗がボトボト滴り落ちる。
「復帰初戦がお前でよかったよ、オレ」
それって俺が安牌だったからということなんだろうかと皮肉が一瞬頭をよぎったが、ここまで粘ったスコア上での言葉だから、素直に受け取っておこう。
俺もお前が相手で良かったよ、なんて言葉は言わない。言ってやるものか。
「………足大丈夫かよ、お前」
「まだまだ」
「嘘つけよ。ま、それが本当なら次の、金王の海野イラク戦も余裕ってか」
「え、金王の海野って………マジで?」
「マジで」
海野イラク。名前だけは知っている。
強豪と名高い金王高校3年テニス部部長。プレイスタイルなんかは知らないが、噂では2mを超える巨漢で、ラケットで人を殴り殺し、負かした対戦相手を頭から喰らってその血を啜ると聞く。そこまで聞くともはやそれは異種格闘技戦で相手がクマだと言われても納得しそうだ。ただ、実績を考えれば今大会でも最強クラスの一人に間違いはない。というかなんでこんな大会に出てるんだ。
神様も、どこまでも嫌味なクジ運に仕立ててくれたものだ。区民大会2戦で連続の全国区とは一体俺に何の恨みがあるのだろう。
ただまあ、いい。俺の望みは半分叶ってしまった。二回戦なんてのはただのオマケだ。それに今の俺が行っても児島が行っても、勝てる見込みはこの試合以上に薄いだろうし。
靴紐を結び終えて、立ち上がる。
「さ、続きだ」
「大会に残る名勝負にしようぜ」
一回戦から名勝負なら、決勝は伝説か神話だな。せめて日没までに終わって欲しい。
『6-6』
審判のコールがあって、それぞれ再び互いの位置につく。
児島は笑っていた。さっきよりも幾分楽になったようだ。知らないうちに敵に塩を送ってしまったらしい。
こちらも、状況のまずさを除けば大分気分は楽にはなってはいたが。
「ごめんな、児島」
神様がくれた、千載一遇のチャンスなんだ。
俺はどうしてもここでお前に勝って、これで心置きなくテニスを辞めたいんだよ。
冬の区民大会一回戦、1セットマッチ。
ゲームカウント6-6、7点先取タイブレーク6-6、デュース。
相手は2年夏の高校総体ベスト16。3年夏、不出場のエース。
俺が高校3年間の現役時代でただの一度も、文字通り1ゲームすら取れなかった、そんな相手。
ボールがふわり、児島の手から離れて宙を舞う。
タイブレークはまだ、終わらない。
[終]
[ 第2話へ戻る ]