へんてこな昼下がり



「ありがとうございましたー」

 入り口のベルの音がしたあと、間髪いれずにバイトの子の声が店内にこだました。
 それを契機にして、私は自分の夕飯の下ごしらえを終えると、キッチンからフロアの方へ戻った。
 そろそろだ。
「倉田さん、そろそろ」
 キッチンに戻るなり、私はカウンターテーブルを拭いていた倉田志穂くんに向かって、そう言った。
 唯一のバイトで、背がとっぽい割にこまごま動いてくれる。調理師の学校に通ってるとかなんとかで、たまに調理も兼ねてもらっている。
 たまに客が多すぎると頭がパンクするけれども、基本的にはのんびりしたいい子だ。
 そんな彼女は思い出したように、私の顔を見ると「ああ」とのんびりした声で言った。
「そういえばそんな時間ですね」
 彼女の視線が移動した先にある鳩時計は、もう二時半を告げていた。
 時間的に言えば、かきいれどきはおわって、ランチタイムというにはいささか時期を過ぎているころ。

 それでも、私は来るであろう「ひとときの常連」のために準備に取り掛かった。

 今日はなんだかでパスタが売れ行き不調なので、とりあえず客に出すに失礼のないだけの食材を確認してから、水を張った鍋に火をかけて、後ろの棚にしまってあったパスタの袋を取り出す。

 私は、マスター。
 どこぞの猫と違って名前は一応あるが、常連からはマスターで通っているので、ここにいる時は「マスター」だ。
 ここは別に平穏な、どこにでもありそうな軽食の喫茶店。
 数年前に苦労して立ち上げて、それなりに赤字だったり黒字だったりする、我ながらそれなりの喫茶店だ。

 がらららあん。

「いらっしゃいませー」
 分かっていたかのような笑顔を振りまいて、志穂くんがやってきたお客に声を張り上げた。
 ドア口に立っていたのは、なんだか妙な風体をしたひょろひょろとした男性だった。
 大きくて、とても透き通った翡翠色の瞳が私と志穂くんをちらりと見た後、彼は何も言わないで席に着いた。
 休日を過ごすにしては少しおかしい、淡い水色の合羽か外套のようなもので身を包んでいて、とんがり帽子はとても鮮やかな深い緑色をしていた。帽子がきらきらと午後の光を反射して、やはり私の分身である、この喫茶店ごと夢の世界に来たのだと思わせられる。

「…………」
「ご注文はどうしましょう?」
 無言のままのそんな彼に、臆することなく笑って注文を促す志保くん。
 私は沸騰した鍋の火を一度落とした。

「とりあえずコーヒーを」
 外見とは裏腹に、とても澄んだ風のような声。
 声だけ聞けば、気概のいい若者のようだった。
 相変わらずこの時間にやってくる客は誰も彼も顔から情報の判別がしにくい。

 彼は帽子を取ると、ふさふさして気持ちよさげな黒と白の毛並みを覗かせた。
「…………」
 まぁ、二足歩行、というだけで実際彼はどうみても猫だ。
 ちゃんと、とった帽子から可愛げな三角耳がぴょこんと見えている。

 私はそんな客にも慣れたようにコーヒーカップへ、熱々のコーヒーを少量とたっぷりのミルクを注いだ。

 客の猫はカウンター席においてあるメニューを、珍しそうに大きなまるまるとした目でしげしげ見つめながら、上からメニューの名前をぶつぶつ呟いている。
 志穂くんは客が誰もいないときに座るいつもの指定席に戻って、遠巻きに私とその珍妙な客を眺めていた。初めは驚きと違和感で目の前の若い猫みたいにまるーくなっていた目も、今となっては穏やかなものだった。

「どこから来たの」

 不意な私の声に、耳がぴくぴくしてその客がこちらを下から見上げる。
 このテの客はいつもどこから来た、と話したがるので聞くことにしている。
 なのだが、青年(あえてそう呼ばせてもらおう)は、私がコーヒーを差し出す一連の行動をつぶさにしどろもどろに見ながら、それでもどもっていた。

「………と、遠いところです。とても」
「ふむ。山三つですか」
 今まで一番遠い客を思い出して言ってみた。実際の尺度は知らない。
「とんでもない。もっともっとです」
 青年は、興奮したように言った。
 口が案外に大きいので喰われてしまうのではないかと毎度思う。

「そうですか………」

「ここいらまでは、船に乗ってやってきたのです」
 この世界には船があるらしい。
 猫の世界に海があるとは意外だった。
 さっき沸騰していたコンロに再び火を通して、私は次を促す。
「何をしに?」
 猫舌用にだいぶぬるくしたコーヒーを一口すすって、青年は私の問いにちょっと黙ってから、こっちを向いた。
「旅を、しているのです」
「ほう」

 ちょっとだけ大げさに驚いてみせる。
 ぱらりと、沸騰し始めた湯に、パスタを散らす。
 散らしたパスタがぱぁっと花のように広がった後、湯の中に吸い込まれてゆく。

「なぜ、旅を?」
「長い旅は、それを忘れさせました。私はもう、どこから歩いてきたのか、何のために歩いているのか分からないのです」
 旅をしているというのに、旅の目的を忘れた、というのはいささかおかしな話だ。

 その青年はもう一度コーヒーに口をつけるとその翡翠色の瞳を深く沈ませる。

 パスタがふんわりと匂いをたて始める頃には、コーヒーはなくなっていた。
 二杯目を淹れようとして手を差し出すと、青年は私をちらりと見た。
「あ、いえ。結構です」
「……そうですか?」
「ええ、本当に」
 なんだか、コーヒー一杯にやたらこだわる客らしい。
 この前来た三丁目のタマ叔父さんはやたらもう自分の庭について自慢をするのが日課らしい。注文したぬるいグラタンを「はふはふ」ほおばりながら、ホワイトソースをカウンター席に撒き散らしていたっけ。
 猫にも色々あるようだ。
「時に、ここは面白いところに建っていますね」
「………そうですか?」
「ええ。坂の上ならまだしも。何もないじぐざぐな坂の途中だなんて」
 猫にはそう見えるのだろうか。
 実際、ごみごみした路地裏の中にある、看板さえ見えなければ民家と大差ないところにあるのだが。
 世界が違うとこうも見えるものが違うらしい。
「それでも、客は来ますよ」

 茹で上がったパスタから香ばしい香りをさせながら、私はそれを皿に盛り付けてゆく。

「美味しそうですね」
「あ、ご注文聞いてなかったですけど。よろしかったですか」
「ええ、それはもう。平気です」
 気づいてみれば、なんとなく妙な言葉遣いだったが、それでも猫は嬉しそうだった。
 私は昼のランチで残っていた白身の魚をパスタの上にほぐして散らし、その上から少し薄めた、だしとたれをかけてやった。
「はい、おまちどう」
「わあ………いただきます」

 先ほどの憂鬱な顔が嘘のように、子供のような顔で私からフォークを受け取ると、麺をフォークで丸めもせず、ずるずるそば顔負けの音を立てて食べ始めた。
 まぁ、社会のルールという奴が違うんだろうから、何も言わないが。
 とりあえずコーヒーはいらないと言っていたので、食べている間に水を置いてやると、気づかないでがばがば飲み干していた。

 一生懸命食べているのをずっと見ているのも気の毒だったので、志穂くんの方を見やると、志穂くんはワケの分からないやり取りに飽きたのか、窓枠によりかかってウタタネを始めていた。
 まったく、バイト中だというのにのんきなものだ。


 青年がパスタを平らげたのは、それからしばらくしてだった。
 私もあくびを噛み潰していたところに、急に青年がこちらを見たので少し驚いた。
「ご主人、ごちそうさまでした」
「ああ。こちらこそ」
 あれだけうまそうに食べられると、作る方も悪く思わない。
 最近の人間じゃ、あそこまでうまそうには食べない。
 ま、それが、このへんてこな世界に耐えていられる理由でもある。

 へんてこと言っても、彼らから見れば私たちの世界もまた、へんてこなのだ。きっと。

「お代はいかほどでしょう」
「いらないよ」
 それは、決まりきった言葉。
 この世界に来てから、私は志保くんと話して、一銭たりとももらわないと決めた。
 案の定、まるまるとした宝石のような瞳がこちらをらんらんと覗いている。
「なぜですか。私は食べたのです。おいしいパステオィリアイを」
 そういえば、こっちではなぜかスパゲッティーをパステオィリアイ、グラタンをグレッティムルパソとか妙な名前で呼ぶ。三丁目のタマ叔父さんにグレッティムルパソを作れと言われた時に何を作っていいのかさっぱり分からず、苦労した覚えがある。
 しかし、なぜか万国共通でコーヒーだけは発音も名称も同じなのである。
「払うべきでしょう。何か、代価を」
 青年はなおも食い下がった。
「こちらの通貨はあまり使わないのですよ。材料は、別のところから仕入れるのです」
「でしたら………」
 彼は最後まで脱がなかった緑色の外套の中をごそごそとすると、中から濃淡のちろちろと変わる小石を取り出した。それは窓から差し込む午後のやわらかい光に当てられるたびに光の強さや色が変わる。
「いつぞや列車の旅をしていた折、海岸で拾ったものです」
「ですが、このようなものは」
「私なりの代価です。私がココに来た証に。忘れてしまっても、ここにきて、それを見れば思い出すのかもしれません」
 青年の目にはこれといって曇るようなところはない。
 来た時と同じだ。

 私は落とさないように両手でその貝殻を受け取ると、しっかり包み込んだ。

「旅を、続けるのですね」
 私の問いに、その翡翠色の瞳を持った青年は小さくうなずいた。
「はい。歩いていけば、そのうち思い出すのかもしれません。私の旅とは、そういうものなのです」
「そうですか」
 青年はまた、すっかりと幅の広い緑色の帽子を被り、入り口のところで一礼した後、午後の光の中へ消えていった。

「…………」

 手の中を見る。
 夢でなかったことを象徴させる貝殻が一つ、手の隙間からこぼれる光を受けて青や緑や紫の淡い光を放っていた。

「あ、帰ったんですか。あの人」

 椅子の引く音がして、志穂くんがこちらを見ていた。

「ああ。パステオィリアイ食って帰っていった」
「マスター、猫語になってますよ」
「あ、いかん」
 二人して笑いあった後。

 がららぁあん、ぐわぁあん。

「いらっしゃいませー」
 志穂くんが声とともに、間髪いれず水とおしぼりを用意するために動き始める。

 私は掌の貝殻を棚のパスタ皿の横に置くと、カウンターのパスタ皿を流し台にそっと置いた。
 時間は、ちょうど二時半を告げようとしている。
 ランチタイムは、終わりだ。


[終]