ちらほらと、雪はまた降り始めた。
その一面の銀世界に突如、大輪の紅華が咲き、その生暖かい深紅の上に"獣"が膝をついた。
「…………」
関節以外から二ヶ所ほど折れ曲がった左腕、強烈な一撃を見舞われて肘から逆にへし曲がった右腕を投げ出すように前に広げながらも、"獣"は一度白い息を吐き、表情を崩さないまま、ただ一点、虚空を睨みつけたまま呆然としていた。
神に救いを求めるような姿勢に似ていたそれを、背後から若い双眸が見つめていた。
"獣"の後ろに立つ青年は寒さで硬直した無表情を足元に零し、自らが握る鉄製のロッドに付着した血を振り払った。中央の紅い花から散ったような花びらのように、白いキャンバスの上に赤が直線を引いた。
「………愚かに見えるだろう、私が」
静寂に耐えかねて、青年は目の前の"獣"に問いかけた。
命を奪いたくない、などという偽善者に似た感情は青年の中にはなかった。青年はむしろ、渾身の一撃を与えてなお命永らえる"獣"を見て、その命を奪えなかった自分に憤りを覚えていた。
本当なら、今の一撃で苦しまずに死んで欲しかったとさえ、思う。
"獣"の心は、いまや完全に目覚めたと言っていい。"人"としての心を青年が壊してしまった、と表現したほうが的確かもしれない。既に幾度と無く殴打され、紅い華を散らすだけの攻撃を受けた胸は無惨に引き裂かれ、肩口から斜めにばっさりと傷口を広げていた。
低い呻き声が、断続的に"獣"の間から漏れ出し、青年はしばらくその"獣"の産声を身じろぎもせずに聞いていた。
しばらく経って、"獣"がその拙い動きで、青年を背に一歩を踏み出した。
ぎゅう、と雪が押し潰される。
彼の目の前には、何もない。ただ白が広がっている。
もしかしたら、既に眼が見えていないのかもしれなかった。
「まだ、生きるつもりか」
青年の声で、"獣"ははっとしたようにこちらへ向き直った。おそらく、「斃すべき者」以外の意味を失った標的が、目の前に立っているのを思い出したのだろう。
「…………」
「嗚呼」と低く鳴る呻き声を、青年は肯定と取った。こうなった以上、会話は既に意味を成さないのかもしれなかった。生物に本能を捨てろと説いたところで、従うはずがない。生物の中で唯一"人"だけが、明確な感情によって命を捨てることができる。
彼は"獣"に成ったことで、言葉というその愚かな迷いに惑わされることはなかった。
青年は目を閉じ、一度ゆっくりと大きく息を吐いた。遣る瀬の無い思いを今は篭の中に閉じ込めると、厚い手袋が鉄製のロッドと擦れてぎりと啼いた。
ぎゅう、と雪原に足が減り込み、また一歩距離が詰まる。
「―――何時まで、こんなことが続くのだろうな」
答える者を失った問いに吹雪のような風が舞い降りた。視界を閉ざすほどに巻き上げられた雪塵と共に、小高い丘は白い闇に消えた。
鋭い咆哮が一閃、青年の耳を切り裂いた直後、高い風の音に混ざった低い声が追随して迫ってくる。
だが青年は闇の中でロッドを構え、唸るような心の間隙にタイミングを合わせて、ただそれを振り下ろすだけだった。
"獣"に成り下がったモノの軌道を追うのは、さほど難しくない。
「終わりだ」
白い闇へと溶けるようにして、一度遠く高く立ち上った咆哮が消えた。
[終]