雨を含んだ大量の湿気を吸い込むと、心なしか雨音が強くなったような気がした。
暗闇に白く煙る霧雨の夜は、蒸し暑い梅雨の夜を寂しげに照らす街灯の明かりが薄いビニール傘越しに環を描いている。
風はなく、ただ空気が低い澱みの中を漂い、少し質量の高い空気が、傘では防ぎようのない霧雨に湿り気を帯び始めたズボンと共に不快感を感じさせた。
少年はただ静寂に沈む深夜のバスターミナルに着くと、屋根の下でビニール傘を閉じ、軽く水滴を払った。傘の先から染み出すように、水滴が舗装された石畳の上へと広がって行く。
「…………」
無論、最終バスはとっくに出てしまっていて、翌朝までバスは来たりなどしない。屋根のあるバス停が三つほど、水溜りを大きくしたような雨の中を浮き島のようにぽっかりと段差を着けて浮いている。
元々木々に囲まれたターミナルだけに、暗闇の濃度が高い。
もう一度、湿気の味を確かめるように息を吸い込むと、少年は今立っていた場所から一番奥のバス停へと歩き出した。
バス停には、一人の少女が座っていた。
心もち薄赤い空を見上げるような格好で、少年には背を向けたまま、じっとバスを待つように座っている。無論、少年には気付いていない。
艶のある長い髪は、数時間もの間霧雨にさらされてだらりと垂れ下がっており、覇気のない背中にはもはや濡れたと形容しても差し支えのない服が張り付いていた。
しかし、その中に在って少女には言い知れぬ気概が見て取れた。
肩や背はまだ成人にも程遠い少年によりもさらに幼さを感じさせる頃合の少女が、である。実際、少年とは年が二つ程離れている。
「……………」
少年は奥のバス停までたどり着くと、不意を突いて彼女の隣へと腰掛けた。
意地悪そうに彼女を覗き込むと、横を向いた視線が「いつものとおり」少し怒っていることに、少年は安堵した。
その視線の中に、彼女が安堵している表情を見ることも忘れない。
「やっぱり、ここにいた」
「……ずいぶん、おそかったじゃない」
先ほどまで、あれほど言い知れぬ気概を放っていた少女の雰囲気が一変して子供っぽくなった。口調は怒っているが、少年はそれを無視した。
「お前の兄さんが電話をしてくるのが遅かったんでな。今回は最後の最後まで使わなかったと見える」
妙に余裕のある口調で、少年は不安を煽らないように笑顔を浮かべる。
「あれは、兄さんが悪いの!」
少女は噛み付くように少年に喰ってかかった。
「……………」
少年は微笑んだまま、少女の顔をじっと見つめる。
「…………」
「……な、なによ?」
慌てて目を逸らして、少女はふてくされたように横を向いた。
「いっつもそれじゃないか。お前達は」
「だって、今回はホントに………」
「今回『も』、だろ?」
「う………」
少年は黙ったまま何も言い返せない目の前の子供に、肩にかかった鞄の中から少し大きめのタオルを取り出して頭に被せた。
「………え?」
「とりあえず、それで頭だけでも拭け。この時期の風邪は、質が悪いからな」
タオルの上から、少年の手が彼女の髪をぐしゃりとやった。少女はタオルに手を添えると、一度顔を拭ってから髪を拭き始めた。
思ったよりも元気そうな顔を見て、少年は鞄の中から魔法瓶を取り出しながら、わざとらしくい大きなため息をついた。
「ったく。心配かけさせやがって」
魔法瓶の中に入っている温かい麦茶をフタに注ぐと、湯気ごと彼女に手渡した。
「ほら。熱いから気をつけて」
「あ、ありがと」
少女はフタを受け取ると、数回麦茶に息を吐いて静かにすすりはじめた。
「なんだか、今日はやけに素直だな、お前。気持ち悪いぞ」
「なっ………いつも通りだよ!」
「あぁ、確かに。なんだ、見間違えか」
そこで、少女は少年にからかわれたことを知る。
「………後で覚えてろ」
「昔から物覚えが悪いもので、すまないね」
少年はなおもからかったように笑うと、すぐに空になって突き返されたフタに二杯目を注いだ。
たちまち湯気と共に麦茶がフタの中へと満たされて行く。
風もない雨の日は、湯気が真上に昇る。
「なんだかんだで遅くなったのって………これ、作ってくれてたんでしょ?」
「バレたか。まぁ、この雨だから、こうなることは大体予想できたからな」
少年の言葉に、少女はタオルの端をきゅっとつかんだ。
用意が周到というか、やはりこの人にはかなわない。
「…………」
「でもな、いつものこととは言え、みんな心配してるぞ。お前の親父さんも、お母さんも…………ついでにアイツもな」
「兄さんなんて、いいよ………いらない。いっつも私のこといじめるんだから」
「でもな、その兄貴がいつも電話してくるんだぞ、俺のところに。心配じゃなかったら、そんなことするわけないだろ?」
「…………」
言われることを予想していたのか、少女が口を尖らせてそっぽを向いた。
「な?もう少しアイツのことも汲んでやってくれ。多分、お前には言ってないと思うけど………最近、調子悪くてな。俺から見ててもそうだけど、空回り気味なんだよ」
少年は膝の上で手を組んで、話を続けた。
「…………」
少女は、少年のその中途半端に凛々しい横顔を見やる。
「ちょっとだけ、いらいらしてるんと思うんだ。だから、少しのことにはしばらく目をつぶってもらえないかな?その代わり、調子が戻ったらいくらでもケンカしていいからさ」
いきなり、少年が彼女を見て笑ったので、少女は少し慌てて瞳を反らした。
「………? なにか、ついてる?」
「えっ、あっ、ううんっ……なんにもっ!」
「……そう?」
「う、うん。ほんとに、大丈夫」
まだ戸惑い気味の少年に、少女は念を押すように言った。
「なら、いいや」
少年は背筋を戻すと、少し空のほうを見上げた。
薄赤色の厚い雲は到底晴れるというようなこともなく、天気予報通り雨は霧雨から本降りに変わりそうな勢いだった。
「なぁ」
「えっ?」
いきなり呼び止められたことに、少女はまた驚いた。
「……私?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「むっ、なによ」
ころころ顔が変わる少女に笑いながら、少年は言った。
「そろそろ帰ろうぜ。雨も本降りになってきたら俺はともかく、お前は本当に風邪引くぞ」
「え………うーん。でも、もうちょっといよう?」
「は?」
「その……もうちょっとだけ……ここにいて。なにか話しよう?」
少女は少年の前では結構勝ち気で通っている分、少年には意外だった。この前は帰ると決めるやいなや、兄の部屋で第二ラウンドを始める位の子だ。
「ね?」
「………まあ、お前がそういうなら別に構わないけど」
雨で濡れた笑顔の裏側に何かあるのだろうが、少年は敢えて詮索する気もなかった。再び椅子に座り直して、次声を待った。
「…………」
「…………」
互いの沈黙の時間が経るにつれ、雨の音が静かに増していく。
話をしようと言ったのは、彼女だったのに。
「…………」
本降りの音がしはじめてしばらくした時。
肩に、重みのあるものがぶつかった。
少年は同じ分だけ重い溜め息を吐いた。
「……やっぱりか」
寝てやがる。
数時間も直接ではないにせよ雨に濡れた体が、いつもと同じワケが無い。
少年はもう一度、年の不相応な重い溜め息を吐くと、赤い空へと視点を変えた。
「ふあっ」
体が規則的に浮遊しているような感覚を徐々に強くして、少女は目を覚ました。
今度こそ、体が規則的に揺れている。
「おい、暴れるなよ、落ちるぞ」
目の前に少年の顔があった。
否、おぶわれた状態なのだ。
「え………あれ?」
途切れた記憶を結び直す前に、少年が言った。
「お前はねちまったんだよ。こっちだって風邪引きたくないから、仕方なくおぶってんだよ」
「わ、悪かったわね………じゃあ下ろしなさいよ!」
「黙れ」
少年が足を止めた。
「なっ」
「何時間も座ってて足が冷え切ってる上、熱で倒れるような奴がまともに歩けるかよ」
「あ、歩ける………」
「ワケないっつってんだ」
少女の言葉を遮って、少年は無表情のまま彼女を背負い直すとまた歩き出した。
「……なにさまのつもりよ。エラそうに」
「頼むから、無茶だけはやめてくれよ」
少年は、少女には見えないように、真正面を向いたまま呟いた。
「いなくなったって聞かされる度に『今度はいないかも知れない』って思うんだぞ」
「…………」
「適当に迎えに来たとでも思ってんのか、お前は」
「………」
羽織られた薄目の上着と、長めのタオルの匂い。
まだ、少しまどろみの中にいた少女は、その中に自らの身を委ねた。
ほっとする気持ちを悟られないように。
「おい、そういやお前」
「………ん?」
「どうしていつもあそこにいるんだ?」
「……………」
少女は、心なしか笑い声に聞こえる程度の吐息を少年の首筋に漏らした。
「気色悪いことするな」
「………秘密。教えてやんない」
「あっそ」
「でも、いなく……なったら、きっと、あそこにいる………から。約束するよ」
失踪先を約束されても、少々気の重い少年だった。
だが、失踪すると予告する以上はそれを少年が止めることはできない。
少年にできるのは、連れ帰ることだけだ。
「………分かった」
少年が言うか言わないかの間に、少女の寝息が首筋にかかりだした。
「………ったく」
失踪先を自分以外の誰にも教えてないことは、前々から気付いていた。
兄の友人として、もう一人の兄代わりとして。
分かりづらい乙女心とやらに、今は翻弄されたフリをしているだけの少年だった。
少年は立ち止まり、「まだ子供」の少女と傘を背負い直して体制を立て直すと、本降りからようやくあけ始めそうな空の下を歩き出した。
少年は確かな足取りのまま、少女への家へと。
梅雨明けはきっと近い。
[終]