「じゃ、ドア閉めますね」
係員のそっけない声に、私はなんとか笑顔で応えた。
ちゃんと視線を合わせてはいなかったけど、その係員は少しだけ不審そうに私をガラス越しに見てから、次の客へとようやく背を向けた。
彼女が背を向けるのと同時に、いかにも機械的な音を立てて、私を載せた小さなゴンドラは地上をゆっくりと離れていく。
遊園地の他のアトラクションが見え、私を載せた観覧車はどんどん夕暮れの赤を纏いながら視界を広げて行く。
「…………」
一周ちょうど二十分。大きさの割に、この遊園地の観覧車は一周するのに少し時間が掛かる。その分、今になって"カップル向け"なんだと言うことが分かる。
このエラくのんびりした観覧車は小さい頃に何度か家族で乗って以来、そのまま乗る機会を逸していた。
もう建造されて十数年は経っているだろう観覧車は、時々ギィと不安げな音を立てながら、それでも私を空の上へと運んで行く。
アトラクションを越えて、敷地を越えて、ここに来るまでに歩いてきた道が、最寄の駅が、誰かの家が、見えてはその姿を小さくして行く。
冬の夕暮れは陽が落ちるスピードも速く、気が付けばこの観覧車が一周回りきるまでにもう落ちきってしまいそうな程の位置にある。夕暮れの端を湛える地平は徐々に赤みを帯びてゆき、段々視界に広がって行く街をその分だけ赤く染めていた。
「…………」
昔は珍しくて喜んだ景色も、今は重くなった心に押しつぶされてしまっていてどうしようもない。溜息だけが先行して、窓枠を白く曇らせる。
白く曇った部分はぼんやり見えなくなって、寒さの為か少し残ってから、じわりじわりと食いつぶすように小さく丸くなり、やがて消えた。
「………思い出もこんな風に消えるのかな」
我ながらバカみたいなことを呟いてみて、視線を正面に向けた。当然、このゴンドラには誰もいない。私一人だけ、座り心地のあまり良くないシートに場違いのように座っていた。鋭角に差し込む光はゴンドラの中をぼんやり赤く染めていて、私はすぐに視線を外に戻した。
ひゅう、と強い風が窓枠の隙間から鳴り、私は静寂を思い出す。
誰もいない。
何の音もしない。
そして何もない鳥籠の中の静寂は、代わりに思い出を連れてくる。
やや鮮明になる思い出を噛み締めるように、私は目を強く閉じた。
最後に観覧車を見たのは、やっぱりあの人と。
………私と激しいくらいにまで性質の合わなかった、あの人と。
―――
「………観覧車?」
「ダメかな?」
復唱した私をうかがうような顔で彼が覗きこんだ。頼りなさげに見えるその顔は、多分私が頷く可能性を半々と見ているんだろう。
閉園間近の休憩コーナーには、もうほとんど人はいない。いる人は風船をつけてちょっと疲れた顔して今日のことを話してる家族連れとか、帰る前に一休みしてこの後何処行こうか話してるカップルとかだ。
「観覧車、好きなの?」
「うん」
それなら時間のあるうちに言えば良かったじゃない、と言おうとして、はたと口の辺りで留めた。多分、私があまりゆったりする乗り物が好きじゃないのを見越して、疲れた頃にのんびりできるものを言うつもりだったのかもしれない。
気の回しすぎに気付いてしまうのもなんだが、彼はそういう性格だった。
少し考えるフリをして、一拍。
「分かった、いいよ」
「やった」
「あ、でも」
視線を時計の方に促すと、彼も自然とそっちを向いた。
もう閉園まで三十分もなかった。観覧車までは、ちょっと遠い。
「間に合うかな?」
「この時間ならさすがに並んでないだろうし、大丈夫だと思うけど」
決まれば後は向かうだけだ。
何を言うでもなく、私たちは園内を歩き出した。
並ぶ速度は二人とも相手を気にしていないのに、偶然同じ。一歩は彼の方が大きいけど、私はその分歩調が早い。
周囲の人は私をせっかちと呼び、彼をのんびり屋と呼び、私たちが一緒になったことをひどく心配した。あまりに両極端だった私たちは周囲の心配をよそに、意外とうまいことやれていたこともあって、周囲の鼻を明かしたような気になっていた。
性格を現したようで嫌だった歩き方も、私は彼と歩いてる時だけは好きになれたのだ。
―――
私が再び眼を開いた時には、観覧車はもう頂上近くに差し掛かっていた。
高い高い夕暮れの空は、先程よりも手の届くような低さにあり、代わりに私がさっき歩いていた地上はとても遠くなってしまっていた。
「………」
軽く目を閉じていただけなのにやたらと体が重く、頭がぼんやりとする。
窓に頭をもたれさせ、ふいに目をやった窓の外は、玩具箱をひっくり返したようにたくさんのものが混在していて、とても全てを眼では追いきれないくらい小さい。
消えかけた赤が世界の全てを包み、始まる夜の青がその外側をほんのりと覆う。
「…………」
時間とタイミングがカチリと嵌った幻想的な光景。
私にもう少し何かの余裕があれば、声を漏らしていただろう。
衝撃は最初の一瞬だけで、その後はじわりじわりと心の中には深い拒絶と、嫌悪が広がる。
なんの感慨も沸かない自分に対しての嫌悪。
ただ世界が私の真下にある。それだけしか思えなかった。
(なんのために、ここに来たんだろう……)
少なくともこんな景色を見るために来たんじゃなかった。観覧車なんて、元々好きな類の乗り物じゃないのだから。
(なんでここに……)
心の中で反芻すると、深い息が漏れた。
本当は、多分分かってる。答えにしてないだけだ。
でも、早く思い出さなければならないのに、同時に思い出される嫌な思い出が、多すぎた。
「…………」
でも、時間が経つたびに心の端は、思い出は食いつぶされる。
窓には、さっき吐いた溜息の白い跡はない。
今出せるはずの答えも、いつかあんな風に消えて分からなくなる。
思考はぐるりぐるりと勝手に頭の中を二転三転してから答えを出し、私は気が付くと泣いていた。
―――
私たちは自分たちでも分かるくらいとても相反してて、きっと「好きだ」って気持ちがなかったら、すごい敵同士になっていたかもしれない。
好きだ、って思えたのは偶然じゃないと強く思える。
でも、それは違っていた。
彼は、気付かないところで私に無理をしていた。
私も、彼に気づかれないように気を遣っていた。
どこかで、私たちの間は奇妙な形に歪んでいた。
うまくいっていたのではなくて、歪んでたのが隠れていただけなのだと気づいた時に、私はもう彼に近付くことはできなかった。
これ以上歪んだら、きっと私は彼のことが嫌いになる。
すごい敵同士になる前に、好きでいられるうちに。
私は彼の前から、逃げ出した。
そして気付けば私は、観覧車に乗っていた。
あの時、結局乗り損ねてしまった観覧車とは違うものだけれど、もしかしたら「いるのかもしれない」と思った。
私は、ここで彼を見つけることができると思った。
少しは観覧車が好きだといった彼を、分かれると思ったのだ。
だがそれは、愚考だった。
そんなことで彼を分かってあげられるワケがなかった。
私は私で、彼にはなれない。
「っく………う、くっ……」
鼻を啜って、目を擦って、私はその孤独にただ、耐えた。
私の隣にはもう彼はいない。
だから、一人でこんなところにいるんだよ。
―――
「ありがとうございました。足元に気をつけてください」
泣いた痕ができるだけ見られないように、係員に視線をあわせず、私は無言で観覧車を後にした。
途中、一度だけ振り返って、観覧車を見上げる。
「…………」
冬の風が、やたらに冷たい。
閉園十分前を告げるアナウンスが、辺りのスピーカーから聞こえる。
あの時と同じ様に、もう辺りには誰もいなかった。
いないはずだった。
「ずるいじゃないか」
背後から、少し険の混じった聞き覚えのある声。
風のせいもあって、全身が総毛だつ。
「………君だけ、先に乗ってしまうなんて、ずるいよ」
「その台詞は、そっくりそのまま、返したげる」
そう言って、私はゆっくり振り向いた。
アナウンスが、繰り返すように閉園を告げる遊園地。
がらんどうとしたこの場所には、もう誰もいない。
―――私以外にはもう、誰もいない。
[終]