椿荘



 自分の薄く乾いた咳で、春枝は目を覚ました。

 きん、と頬に張るような寒さを感じる。
 ぼんやりと、徐々に開けてくる視界の先では、濃い茶をした木目の天井が並んで春枝の様子を伺っていた。
 喉が渇いていて深く息を吸えず、浅い息だけが口腔をただ行き来する。それと同時に澱のように溜まったものを感じる鳩尾の感覚がいつもより重く、熱を持っているのが分かった。
 動きたくないという一点が体を支配したが、逆に春枝の頭はやけに冴え冴えとしていた。
「…………」
 浅い息を繰り返しながら、見やる枕元には誰もない。
 寝ている内に主治医が様子を見に来ていたようで、薬の入った袋と水差しが家人の代わりに春枝の死に際を看取ろうとしていた。

 ………やはり、誰もいないのね。

 耳を澄ましても、聞こえるものはない。
 仮に家に人がいたとしても、死に病ともなればこのような奥の間にはおいそれと入ってこないのかもしれなかった。春枝が床に伏せてから、息子達は春枝のことを疎んでいたし、夫の通久も仕事で家を空けることが多くなっていた。
 代わりに、静寂に混じってこの部屋の遙か遠くから、軋むような音が聞こえた。
 冬に入ってもなかなかにないほどの厳しい寒気だから、今日は雪でも降っているのかもしれない、と春枝は縁側の障子の方に目をやった。
 しかし、障子を挟んで向こう側、縁側は雨戸に閉ざされて外の様子を窺い知ることはできなかった。天井とはまた違う木目が森の木々を現すような縦縞を描いて、外に広がる雪景色を断っている。
 つまらない、と言おうとして代わりに痰交じりの咳が出た。
 吐き出す際に胸が熱く痛み、思わず手で胸を押さえる。もう片方の手で塵紙を引き寄せて、そこに痰を吐き出した。
「………」
 もう、咳一つでさえままならないのか。
 塵紙を畳の上に転がして腕をそこに投げ出したまま、春枝は宙を仰いだ。視界がおぼつかないためか、木目が動いているように見える。
 ぼそ、と近くの屋根から雪が落ちたらしいのが聞こえて、春枝は視線を少し障子の向こうへと映した。
 後自分にできることは、静かに死ぬことだけだ。
 死に病に罹った時に医者が言った余命宣告を二年も退けた。大往生だ、と人は言ってくれるかもしれない。
 あの木目の森を抜けた先の世界を、春枝は頭の中で必死に掻き集めた。
 鉛色の重たくて厚い雲、そしてそのぼんやり薄暗い中を深深と降りる雪。冬枯れた庭を一色の白に染めたあの景色。
 二年前の冬、夫が仕事で戻れず、一人で雪見をした時に見たあの景色。
 あの白い庭に咲く椿は、本当に赤かった。
 強く強く、精一杯の力で目を閉じた瞬間、襖の一つ向こう側で足音がした。咄嗟に目を開くと障子の向こう側にぼんやり、人の気配を感じることができた。
「………どなたか」
 やっと春枝が搾り出した声に、障子の向こう側は反応を返さなかった。小さすぎて聞こえなかったのかもしれない。
 息を整えて、もう一度。

「どなたか………いらっしゃるの」

 短い沈黙の後、少し低い声がした。

「春枝」

 長いこと耳にしていなかった声に、春枝は耳を疑った。
 苦しいのを抑えて何か言葉を搾り出そうとする前に障子が少しだけ開いて、その隙間から一枝の椿が差し出された。
 まるで、今思い描いてた世界から飛び出してきたような色に、春枝は痛みを忘れた。
「………嗚呼……」
 代わりにこみ上げてきたものが頬を伝い、枕を濡らした。

「今度は一緒に見る、と約束したな」

 先ほど諦めて投げ出したままの腕を、椿の一枝へと伸ばす。
 届かないのは承知だった。
 それでも、求めないわけにはいかなかった。
 あの人が、覚えていてくれた約束なのだから。

「お入りに………なって」

 障子の隙間へ声を投げかける。
 椿まではまだ、遙かに遠い。

「だが、俺はお前に合わせる顔がない」
「でもこうして………来てくれたじゃ、ありませんか」

 相変わらず、音は外から聞こえる雪の音。春枝が裾を畳みに引き摺る音は、それにくらべれば些細なものだった。頭半分ほど動いたところで、春枝は一度止まった。胸が、何かに圧し掛かられているような重ささえする。息はもう、胸ではできなかった。
 今体が重いのを、春枝は心底呪った。
 望んだものまでが、遠すぎる。
 これでは、届かない。
 せっかく来てくれた通久に、届かない。

「ひとりは………もう……いや」

 胸が押し潰されきって、息が止まる。
 視界が白く濁り、何も感じなくなる直前、障子がすうっと開く音がして伸ばした手が暖かい手にしっかりと包まれた。
 その瞬間、体がふわりと軽くなり、胸の痛みが嘘のように消えた。
「今まで、すまん………」
 声を頼りにうっすらと目を開くと、暖かい手の先にはあの人がいた。
 二年前、雪見の日に死んだ、あの人が。

「………迎えに来たぞ、春枝」


   −−−


 その後、春枝は手伝いが自分の骸を見つけてくれるまでその部屋に居り、奇声をあげて出て行ったその姿を見て、ようやく通久に手を引かれて立ち上がった。
 障子を閉める際、一度だけ見た春枝の骸は白い布団の上、枕元に大量の吐血をして眠っており、その姿はさながら白い雪の上に落ちた大輪の椿を抱いているようにも、見えた。

[終]