コールドゲーム



「………ダメか」

 電波の届かないとこにいる、と女の人の声で念を押されたように何度も言われて、私は通話を切って、携帯を畳んだ。
 機嫌が悪い時にやっている、と誰かに指摘された足が床を叩いているのに気づいて、私は誰に言うでもなく、足を止めた。
「…………」
 結果は既に出ているはずなのに、報告だけが来ない。
 なにかあったのかと悪い予感だけが頭をよぎったが、すぐにいつものことだと頭を切り替える。
 そういえば、いつも電話をかけるのは痺れを切らした私だった。
 今日に限って、そんな都合のいいことは起こったりしない。
「………はぁ」
 閉じた携帯を机の上に置いて、視線をゆっくりと室内から窓の外に移す。
 空は夕暮れ。クーラーの壊れた空き教室は最悪の状況で、開け放たれた窓から容赦なく入り込む生温い風と、虫の鳴き声がけたたましく夏を主張する。
 西日の程よく差し掛かったオレンジ色の空は、雲の色すら染め上げていた。
 汗ばむのを無視すれば、しばらく見ていたくなる絵にはなる。
 そんな時、ちょうど良く―――。

 ――りぃん。

 窓から入り口の方に吹きぬけたぬるい風に、澄んだ音が一度、呼応した。
「―――?」
 この場にはありえない澄んだ音色に、振り返る。
 がらんどう、という表現がふさわしいほど、開け放たれて誰もいなかったはずの教室にぽつり、影が浮いている。
 視線が合うより前に、彼の手にぶらさがっている風鈴がもう一度、廊下の風にくすぐられて音を立てた。
「………高坂」
「だりぃ」
 ………第一声から言う言葉を選べよ。
 もしくは、考えることももはや不可能なのか。
 あまりにもけだるそうなその声の主に、私は溜息を返してやった。
「なんかもう、見てるだけで暑いよ、アンタ」
 確かに、だるそうな顔も分かる程、着ているYシャツはベタベタに透けていた。タオルは巻いていたが、あまり役に立っていないようで、今、プールから出てきたといわれても気にしないくらい、髪だって濡れているように見える。
「………そりゃ、な」
 ダルそうな高坂の手元で、知ってか知らずか風鈴がまた鳴いた。
 あまりにもミスマッチな光景を凝視する私に気づいたのか、彼は垂れ下がっていた風鈴をつかんだ。
「ああ、これ?」
「風鈴なんて、どうしたの?」
「家から持ってきたんだけど、あんまり役に立たなかった」
確かに涼を取る、とはいっても物理的な影響はまるでない。
 現に役に立たないといった高坂がこの有様だったので私は少し笑ってしまった。
「で、嶋村はこんなとこで何やってんだ?」
「だって、補修の最後の時間ここだったから」
 とはいっても、授業自体は既に三十分くらい前に終わっていた。今は当然、私以外に誰も残ってはいない。普段の授業でもあまりお世話になることはないから、生活感のない教室は若干ホコリくさくて、なんとなくよそよそしいイメージを受ける。
「そりゃ分かるけど、もう終わったんだろ?」
「電話かけてたの。繋がらないから、それで」
「ああ………アイツは試合が終わっても電話、出ないからな」
 誰に電話しているのか勝手に決め付けておいて、さして興味もなさそうに、高坂はここにいないアイツとやらを思い浮かべてから、私を視線で促した。
 気づいたけれど、私は同じように視線で意味を問い返した。
「ここにいてもしょうがねえし、校門まで一緒に出ようぜ」
「別にかまわないけど………」
 携帯を一瞥して諦め、鞄の中につっこんだ。
 まぁ、後で知っている友達にでも電話すればいい。
 そのまま鞄を肩に下げて、鳴り止まない風鈴に呼ばれるように教室を出た。
 抜け出した廊下は日陰に入っていたためか若干ひんやりとしていて、静けさのせいもあってか、多少、空寒いものも感じる。
「平井さんは?いつもこれ見よがしに見せ付けて帰ってくれるじゃない」
「今日はお前の彼氏と一緒」
 答えるのも面倒くさそうに、高坂が誤解されそうなセリフを端的に吐き捨てた。
 嫌味を載せてみたつもりだが、暑さのせいかあまり反抗する気はないらしい。
「ああ、マネージャーだったっけ、そういえば」
「そゆこと」
「ついて行かなかったんだ、あっちに」
「会場は暑いしね。それに昨日、数学の補習で赤点取ったから、空いてる第三教室で追加補習。塚原先生から逃げると後が怖いからねー」
「………補習で赤点とってどうすんの」
「補習に赤点を設ける方が悪い。参加しただけエライと思えっての」
「本当は参加しない方がいいんだけどね」
「赤点組は補習に参加しないと単位くれないんだから仕方ないだろ」
 高坂が口をとがらせておどけたような表情を見せる。
「まあ、残りは自由参加だからおのずとバカが集まるわよね………」
 わざとらしく溜息をついてやる。そこまで言われるとさすがにむっと来たのか、高坂の表情が幾分変わる。
「お前だって同じじゃないのかよ?」
「私が赤点取るわけないでしょ。自由参加枠」
 直に当たればひりひりしそうな夕焼けを避けるように渡り廊下の日影を選んで歩く。
 ここまでくれば後は昇降口のある建物まで外には出ない。
「ってか、それならお前こそ行けばよかったじゃないか。応援に」
 高坂がうちわ代わりとばかりに鞄の中から下敷きを出して仰ぎだす。その風が少しだけ私も涼しくさせる。
「一回戦の相手は楽勝なんだってさ。万一調子狂うといけないから見に来るな、って言われたの」
 下敷きの風の延長線上にそれとなく移動しながら答えると、彼はさして興味もなさそうに適当な相槌を打った。


「ああそうだ」
 下駄箱から靴を取り出してると、高坂が思い出したように呟いた。
「忘れもの?」
「あ、いや。お前結果知らないんだなと思ってさ」
「ああ………うん、まぁ、そだけど」
 そっちには、本当にさして興味はなかった。
 実力も知っているし、本人もそう言ってただけあって、私はまるで彼の事を心配していなかった。見に行かなかったのも、そういう慢心じみたところがあるからだ。
 彼なら大丈夫だと、今もそう思っている。
「興味ないの?」
「ないね」
 きっぱり言い切ると、なぜか高坂が笑った。
「………なに?」
「いや、別に」
「煮え切らないわね」
「結果知ってたんだけど、あまりにも大した自信だったので」
 全部知っている、といわんばかりの態度に少し腹が立ったけど、含みのある言い方に何か引っかかるものを感じて、私は聞き返した。
「負けたの?」
「いんや、十二対一。五回コールド」
「………なんだ」
 予想通りの答えに、安堵とも、意外とも思えない息をついた。安心したのは確かだけど。
 ドアを開いて昇降口から外に出ると、瞬時に引き返したい衝動に駆られた。
「う…………」
「………暑いねぇ」
「もう日が沈むってのに………なに、この暑さ」
「日中がもっと暑かったって考えれば和いだ方なのかもな………」
 いっそう元気をなくした高坂は隣で苦笑いをしながら、空を見上げていた。
 一理は一理だが、だからといって、相対的な問題で涼しくなるわけじゃない。
「これだから夏って嫌いなんだよね」
「同感だな」
 それでも立ち止まっていては暑いだけなので、のっそりのっそりと角度のきつくなった日影をなぞるように歩き出す。
「そういえば、なんでアンタ知ってるの、結果」
「お前の言う『平井さん』経由」
「なるほど」
 それとなく察しているのか、高坂はあとは校門まで何も言わなかった。
 校門から先は、見事に帰途が左右に分かれているから、ここで高坂と別れてしまえば、後は夏が明けるまで会うこともないだろう。
 仲がよくても、ただのクラスメートが持つ距離などはそんなものだ。
「夏が終わるまでに、元気出しとけよ、お前」
 校門まで来ても立ち止まらず、ダルそうな言葉を残して彼がそのまま歩き出す。
 別れの余韻すらなく、私はただその背中を見送る形になった。
「え?」
 幾分間をおいて聞き返した私のほうへ、生暖かい風と共に面倒くさそうな顔が振り向いた。
「お前の調子くらい、見れば分かんの」
「………気づいてたの」
「何があったのかは知らないけどな」
 汗だくの憮然とした顔で言われると、暑いのが全部私のせいみたいに聞こえる。
「………うっさい」
「せっかく慰めてんのに」
 わざとらしい溜息のあと、高坂は勝ち誇ったように笑った。
「まあいいや、俺が知ってなきゃいけないことじゃないし」
「まあね」
「んじゃーな。また九月」
「……うん」
 今度こそ、とばかりに彼の少し大きめの背中がくるり半回転。
 そしてそのまま、生温い空気の中を歩き出す。
 私は高坂が角を曲がって見えなくなるまで見送った後、一度大きく深呼吸した。暑い中でやっても大した効果はなくて、逆に頭がくらり、傾ぎそうになる。
「…………」

 時に高坂は、私が既にアイツと別れていたことも知っていたのだろうか。

「………」
 そんな思いを抱いて、打ち消した。
 彼なりの優しさは、そういう形で受け取っておこう。

 鞄から携帯を取り出して開いても、着信もメールもない。
 もしかしたら、「いつも通り」結果報告してくれるのではないかとどこかで期待していたけれど、彼はそれほど未練を引きずる奴もでもなかった。
 今日のコールドゲームが、その証だ。
 汗ばんだ額に吹き抜ける夏の風が、滲みそうになった気持ちさえ持っていってくれたらしい。
 念のため、一度手の甲で目をこすってから、私は学校に後にした。

   −−−

 翌日、私は高坂が嘘をついていたことを新聞の地方版で知ることになる。

 くしくもスコアは同じ、十二対一。
    ――――五回、コールドゲーム。

[終]