「須藤………ちょっとだけ、ここ頼むな」
遠い喧騒についでに混ざったような、そんな小さな、聞きなれた声。
なんとなく頷いてみたものの、なんか笑われたような気がした。
ふわりと一度、何かが頭を撫でるような感触がして、それきり近くを流れる風を残し、全てが闇の中に消えた。
−−−
「…………」
カーテンが強く揺れる音で、目が覚めた。
「……ん」
入り込む強い風が、少し肌寒い。
「………んぅ」
意識がはっきりして、机に突っ伏していた状態から頭を少しずらすと、開け放たれた窓から、やわらかい秋の西日が斜に差し込んでいるのが見える。
寝た時は、まだ三時をいくらか回った頃だったから、多分結構寝ているんじゃないかと、ふと思う。
舛田に撫でられていたのか、髪の毛にちょっと違和感。
朧げに寝る前を思い出しながら、丸まっていた背を起こして、座ったまま伸びをする。
「ふわ………」
自然に出た情けない欠伸交じりに時計を見れば、カチカチ音がしない学校の時計の秒針は流れるように、長短針は四時半を告げていた。
「………」
風に乗って遠くを走っている救急車のサイレンが、やけに近く聞こえる。
今日は、テスト前ということで、部活も中止。
だから、いつものような賑わいはなくて、おそらく残っているのも自習室や図書室に分散していて、部室にいるような物好きはたぶん私くらいだ。
ざわざわ、という外からのまばらな音はあっても、直接的に何か、という音は周囲にない。
寂しさと同時に感じる心地よさのようなものがここにあって、私はそれが好きだった。
突き離された様につめたい、誰もいない部室に、たった一人。
「…………一人、か」
なんだか妙にしっくり納得してしまって、呟いてみる。
本当はもう一人、残っていたメンバーがいたのだけれど、今はいない。
視線を机に戻せば使い古された落書きだらけのルーズリーフが一枚、真ん中にそれでも分かるくらい大きな字で、淡々と用件だけを書いてあった。
『いつもの講義室に行ってきます。戸締りよろしく。舛田』
寝ている私に気でも使ったのか、部屋の戸締りが面倒になったのか、とりあえず舛田は鞄ごとごっそりいなくなっていた。どのみち鍵を部長の舛田に返さなきゃいけないのだから、結果的に後で寄れということになる。
「……………」
嘲笑に似た軽い溜息混じりに、ルーズリーフを小さく折りたたんで制服のポケットに突っ込んだ。
通りで風通しは良いわけで、カーテンのばたばた揺れる窓から一直線のドアは開け放されていて、よく見るとこちら側からは引き戸になるドアノブの鍵穴に鍵が乱雑に突っ込まれたままだった。
こんな弱小部のキーを盗む奴はいないだろうが、無用心極まりない。
「ドアくらい閉めてってくれればいいのに………」
先に窓を閉めてから、寝ていた時に使っていた椅子をひょいと飛び越えて部屋を出る。
とりあえず、ここでやるべきことはもうないから、さっさと出て行くことにした。
あとは、とっとと講義室へ行くだけだ。
静かに鍵をかけてドアノブから鍵を引き抜くと、私は午後の細長い影が差し込む廊下を歩き出した。
−−−
廊下には、さっきの雑然に似た静寂が漂っていた。
遠くを叩く上履の音も、どこから聞こえてくるのかが分からず、ただ私の足音と、ぶらさげて歩く鍵の出す金属の音が、私の後をついてくる。
何かがいそうなのに、実際目の前には誰もいない回廊がただ広がっている。
時折、知らない人とすれ違うけど、テスト前でピリピリしているのか、誰にも私などには目もくれず、通り過ぎていく。
誰一人、私に気付くこともない。
誰もが、私が、自分がここにいることを気にとめもせずに。
−−−
「………ふぅ」
階段を登り終えると、そこはもう講義室の並びだ。
最上階なので普段から人がいない上、三年生の特別授業や補講、今みたいなテスト期間の自習室でないと使用されない教室群で、二十人ほどが入れる小さな教室が六つ程ある。
いつも舛田が使ってる一番階段からは遠い講義室。
そこへ向けて歩き出すと、通り過ぎる教室たちはいつもなら、静けさを求める真面目な学生達がまばらにいるのだが、今は全てドアが開け放たれていて無人だった。
静けさと、足にひやりとするような空気がまとわりつく、秋の廊下。
西日は徐々に色を濃く赤く、地平へと沈む。
三つ目の教室が無人だったのを確認して、私は一度足を止めた。
舛田がいるはずの最後の講義室が他の教室と同じ様に、扉が開いているのだけはここから確認できる。
風が、深い秋の向こう側から今まで気付かなかった虫の音をつれてくる。
立ちすくむ私の髪を、服を、鍵を揺らして、誰もいない空間をぐるぐる回っている。
「………らしくない」
しばらくその場から動けずにいたけど、諦めたように、一歩踏み出す。
廊下から、今までの教室と同じ様に西日が差し込むくらいまで、最後の講義室が見える位置に立つ。
窓の外はほぼ沈み終えた太陽の上に、濃紺の空が広がる。
そしてその前に広がる講義室は、無人だった。
「………やっぱり、か」
自分を納得させるように言って、なぜだか安堵の息が出た。
なんとなく肩の荷が降りたように、誰もいない教室のドアに手をかけて、一度寄りかかってから中に入る。
無人の教室、机の上にまるで忘れ物のように二つの鞄が置き去りにされていた。
片方は、私の。
もう片方は、舛田の。
そして、もう一つ―――。
慌てて出て行っただろうから忘れていったのか、友人の麻理のノートが、開きっぱなしのまま、舛田の机の近くに開いてあった。
「…………」
私は溜息混じりに、ノートを静かに閉じると、その名前を確認した。
親友でありながら私を裏切った坂巻麻理の、その名前を。
「…………夢じゃないの、麻理?」
ここにいない彼女に呟いて、ノートに手を当てる。
………さっき、舛田に撫でられた後の、夢に出てきた光景の続きがそのまま残されたような、がらんどうの殺風景な部屋。
いや、あれは夢ではなく実際にあって、そして私はさっきまで、ここにいた。
ここにいつものように舛田を見つけて、でも舛田は、麻理とキスしてた。
ホントは、ずっと前からなにかがおかしいことに気付いていた。
そう………気付いてた。
「…………」
ポケットに入れた、置手紙を開く。
「あと、十秒遅れてたら、ってのはないのかな…………」
………これを、ちゃんと畳んでさえいれば。
私は麻理と舛田の裏切りにギリギリで気付かないまま、危なっかしくとも幸せな日々を送っていたはずなのに。
もみ合いになって、私たちを止めた舛田と一緒に、窓から落ちることもなかったのに。
ここに在るのはやたらに現実感の沸かない、哀しいとか、憎いとか言う感覚さえも失った、だたの抜殻だった。
「…………」
窓には、布を引っ掛けたようなものが玉になって、ドアのサッシのところにこびり付いていた。たぶん、落ちたときに私か舛田の制服をひっかいたんだろう。
近付いてみたけど窓の下は、見る気もしなかった。
代わりに見上げる空は、旅立つには申し分のないほどに、綺麗だった。
「…………」
確証はないけど、彼がここにいない、ということはきっとまだ生きているんだろう。
ただ、それだけが救いだった。
こんな、誰一人気付いてくれることのないたった一人の世界には、私ひとりでいい。
夜の冷たい風が流れ込む窓を閉めて、溜息を一つ。
「…………さよなら」
急に眠くなって、そのまま窓枠のすぐ下に、背中をこすり付けるようにして倒れこむ。
倒れこんでしまったら、もう目を開けることも出来ずに、その流れの中に身をゆだねる。
「さよなら」
知らないうちに、力いっぱい握り締めてしまっていたくしゃくしゃのルーズリーフを胸に抱きかかえながら、私は静かに、自分の体が羽根のように軽くなるのを感じていた。
[終]