『八番、熊沢くんに代わりまして、代打、岸田くん。背番号、一七』
こういうとき、自分の名前が呼ばれるのはひどく奇妙なものだと思う。
練習試合でも、代打を告げられるその時に、世界は一瞬、ぽっかり空いた穴の中に吸い込まれたように違和感が漂う。
自分の名前を告げるアナウンスが聞こえると、ああ、公式戦だなと、そう思う。弱小チームの練習試合だと、こうはいかない。球場に毎度ウグイス嬢が居る訳じゃないのだ。
「岸田さん、すんません。ダメでした」
バッドに滑り止めを吹き付けている間、三振に倒れた前打順の草峰がバッターボックスから引き上げてきて、言った。
逆に塁になんかに出られたらプレッシャー掛かるから、これはこれでよかったとは口が裂けても言わない。実際ここにいるだけで自分の膝はガクガク笑っている。
「球種は見えた?」
「いや………ただすげぇ速えとしか」
そりゃそうだ。
今大会、雑誌に十傑と書かれるほど豊富なウチの県の投手陣で、唯一ノーシードで一回戦を戦っているのが、今マウンドでツーアウトのサインを高々上げる市立縦浜高の小越だ。
身長一メートル七十五センチは投手としてはやや小柄だが、最速一四五キロの直球と切れのあるスライダーと書けば十分甲子園でも通用する。おまけに奴は、憎らしいほど顔立ちがいい。きっと女子とかに困らないん………
「岸田さん?」
「はっ?」
「バッターラップッ!」
草峰の後ろ、審判の苛立った声に、聞こえないように舌打ちをして立ち上がった。暑いからと言って苛立ちをコチラにぶつけないで欲しい。
「岸田さん、ファイトッス」
「おう、分かってる」
何が分かってるのか、確証もない言葉を吐いて、俺はバッターボックスへ向かった。
「お願いします」
バッターボックス前で一礼して入ってから、足元を慣らしている間、一度だけマウンドの小越と(奴からは目が怖くてそらした)、その遙か後ろに掲げられた得点板が見えた。
七回裏、一対十二。二死無塁。
端的に言えば、コールドゲームまで、あと一人。
点差は、ある意味得点板までの距離より遠かった。
ウチが先制点を取って、その後この七回まで六点差に抑えきっていたと言うのが既に奇跡的と思える内容だったが、その望みは、七回表に突きつけられた追加点によって崩壊した。
ずっと、ベンチで声出しながら眺めていたが、確かに今日の相手は別格に強かった。今まで、自分の出る幕がないくらいに、ウチは全員が全員ベストを尽くしていたのだ。
今日、熊沢を応援してた人は、今何を考えてるだろう。
自分の応援する人を、なぜ最後まで出してくれないのかと言う悔しさだろうか。
それとも、自分の応援する人が最後の打者ではないという、安堵だろうか。
「プレイ!」
後ろから厳しい声が飛んだ。もう逃げられない。
そして、目の前の小越から、熱気が消えた。マウンドから冷気すら感じる。
こんなの相手に、前に飛ばすなんてことができた一回裏の攻撃が嘘のようだ。
セットポジションから大きく振りかぶり、雪崩のように襲い掛かってくる彼の姿を、俺はバットを構えながら、一瞬たりとも見逃さないように目を見開いた。
−−−
十七分後、俺は試合終了のサイレンを聞いていた。
「十二対一、市立縦浜ッ!」
主審のコールに、互いに向かい合った二チームは礼をした。頭を下げている間、打ち込まれたウチのピッチャーの嗚咽が低く聞こえた。
不思議と、悲しくなかった。
ただ、何かかごっそりと夏の暑さに持って行かれたような、そんな気がしていた。
マウンドとバッターボックスより近く、目の前で少し息を切っていた小越は、マウンドの上と違って、少しやつれて見えた。
「最後、やってくれんじゃねえか」
小越が手を差し出しながら、言った。
なにもないと思ったので、少し慌てながら、俺は手を握った。
「次も、頑張れよ」
各校が順当に二回戦に駒を進めたせいで、地方大会一回戦でも注目選手の戦いぶりは、ネタのなくなった次の日の地方新聞の片隅に少しだけ載った。
『「全力のエース」小越は、粘る最後の打者に対しても逃げず、真っ向から実に二十一球を投げ込み、力でねじ伏せた』と。
甲子園級相手に三振一つ。
三年間でたった一度だけ訪れた俺の高校野球は、こうして、終わった。
[終]