Carefree 第7話 「しめきり」




 かち、こち、かつ、こち………

 規則正しいリズムだけが、部屋の隅、夜の深い暗がりを泳いでいるのが聞こえる。
 私は一度あくびを噛み潰すと、振り子時計を見てから天井を仰いだ。

「………もう三時か」

 開け放してある窓から今日は入り込む宵風が無く、夜だというのに起きているだけでじっとりと汗ばむ。
 誰が名づけたのかはしらないが、熱帯夜というのも黙ってうなずける。

 窓の外は向こう側の湾で漁をはじめようかという漁師たちの灯が曇り空の星に変わって地上に落ちていた。遠く鳴る海鳥の声も今はなりをひそめているらしい。
 空は時たま夜にある赤黒い空で、雲の厚さを伺わせる。

 暑くはあったが、静かな夜。
 静謐、といういつか習った難しい言葉が似合う時間。

 そして、そんな素敵な時間の中。
 ………遅々として作業が進まない。

「………うー」

 我ながら情けない声を漏らして、首を垂れる。
 バイトから返って来てすぐ作業に入ってる、というのも疲れの原因だったが、それ以上にきつかったのは、期日が明日までだとは思ってもいなかったことだ。
 割がいいからついつい引き受けてしまったものの、そのワケをちゃんと調べておかなければならなかった。
 ………緊急で回ってきた内職なんて、断るべきだったのだ。
 ノルマを越えた暁には二か月分の家賃がカバーできることを、私は今素直には喜べなかった。
 しかも搬入が朝らしく、果たして夜明けまでに、間に合うだろうか。

 疲れた目を擦って、私は一度息をつくと、目の前の内職に手を伸ばした。

「……」

 かっ、かっ、かつ、こつ……。

「………」

 掌で、よくわからない黄色い造花をもしゃもしゃ言わせながら、茎に指して行く。
 なんでも、どこかのイベントで使うものだったらしいが、造花を頼んでいた会社が潰れてこちらに流れてきたらしい。

 かつ、かっ、こっ、こつ……。

 音も、深夜だと異様に大きく聞こえる。
 隣の部屋で熟睡のトモヒトに、この音は届いているのだろうか。

 規則の正しいこの音。
 順番に時を刻んでいるはずなのに、時折順番が狂ったように短く感じたり、長く感じたりする。

「………」

 かっ、かつ、こつ………。

「………」

 軽く、流れ作業的になっていた手を止める。

「……?」

 暗闇の中、細々と部屋のなかを照らしていた、小さなランプ。
 炎が揺れているのを確認する。

 かち、かつ、かっ、こっ………。

 時計の音がは、規則正しい。
 大気が動き出して、少しずつ風が家の中に入ってきた。

「………」

 集中のしすぎだろうか。
 確かに、聞こえていたはずの音が、途切れた。
 気にしだすと、あまり聞こえなくなることはないはずなのに。

 もしかして、時が止まった?

 まさか、な。
「………寝ぼけたな」
 自分の思いを苦笑いと共に短く切って、私は作業に戻ろうと机に手を戻した。
 しかし、今度はその手が、空を切った。

「……あれ?」

 残っていたと思っていた造花の花が、ない。
 机にあった茎も、きれいさっぱりどこかへ行っている。
 もう少しだとは思っていたが、こんなにあっけないものだったか。

「……?」

 ふと気付いて、時計を見上げる。

「………五時」

 時計がぶっ壊れたのかと思ったが、窓の外は赤く濁った曇り空が、ほんのり薄蒼く広がっていた。
 流れてくる風でゆるく結んであったらしい紐がほどけて、カーテンが波打つように部屋を泳ぐ。

「………なにがあったんだ」

 ぼんやりと重い頭で窓の外を見ても、返る答えは無い。

 間違いない、夜明けだ。
 目の前に広がるのは、薄青い靄の掛かった朝の風景。
 小鳥の声が、時計の動悸に代わってやたらにうるさい。
 街の明かりも徐々に光を散らすようにして薄く、溶けるようにして数を減らしていた。

 もう幾度になったかわからないあくびをして、私は寝ぼけ眼のまま立ち上がった。

 ここで寝てしまったら、終わりだ。
 濃いコーヒーでも飲んで、気を持たせないと後が無い。

「うぅー……」

 五時の声は、自分でも驚くほどか細く情けない。
 そんな弱音を吐き捨てるようにして、私は時計を残し、キッチンへと消えた。

    ---

「で、ヒロ?」
「な………なに?」
 少し怒張を含ませた声に、私は身を少しかがめるようにして目の前のトモヒトをちらりとみた。
 私とトモヒトの手はもはや無意識的に、それぞれ花の名前もわからない造花の花びらだけを次々と握っては茎に突き刺す作業を続けていた。
「今の話を総合すると、ヒロは仕事を終わらせたけど眠れなくて、仕方なく暇な時間にあのすばらしい朝食を作った、と考えて間違えないんだよね」
「味の方はどうだった?」
「いや、ここしばらく食べたことの無い材料を使っていたね、朝から幸せだよ」
「朝市に出たら、たまごが異様に安かったんだ」
「へぇー………」
 もっともらしく付かれた相槌。
 私は視線を逸らして、沈黙でそれに答えた。
「………」
「で、なんで終わったはずの造花の仕事がこんなに残ってるの?」
「………」
「ヒロ」
「……記憶は繋がっている、と思ったんだけど」

 そう。
 たぶんあの時間、私は寝てた。

「んで、風で机の下に落ちてることまで予想できなくて………」

 歯切れの悪い私の言葉に、作業をしながらでも
 じろり。
 とこちらを軽く睨むトモヒト。

「時間が時間だったから終わったものと、思い込んじゃって……」
「はぁ………」
 矢の様に突き刺さる溜息。
「………」
「まったく。それであの朝食べさせた後にお願いするんだもん、卑怯だよ」
「……まことに遺憾です」
「とりあえず搬入まで頑張ろう」
「ん」

 寝ぼけ眼を擦って、私は少しだけ耳を澄ませる。

 かち、こち、かつ、こち………

 少し顔のにやけた私を見て、トモヒトが苦い顔をする。
「ヒロ……寝てないんでおかしくなった?」

 今度は、音が消えてしまっても、トモヒトがいるから。

「ヘイキだよ」

 私は軽く笑って、造花作成のペースをあげた。


[終]