「白亜の檻」




「じ、陣ちゃ……っ……いた、い……よ」

 痛みを堪える合間合間に漏れてくる美郷の声は、もはや哀願に近かった。
 先ほどから許しを請う声に混じって、涙目の視線が痛いくらいに僕を見上げている。でも、僕は敢えてそれに無表情を返していた。
「あんまり声出すと、外に聞こえるよ」
 持っている包帯の両端を互いに引っ張ると、美郷の口からは悲鳴を無理に押し殺したような、掠れた高い鳴き声が漏れる。真白の包帯の間に絡まった細くしなやかな両手首は少しずつ締め付けられ、赤みを帯びてゆく。
 本当は彼女の悲鳴を聞いている人間など、この放課後の保健室には僕以外にいない。教諭は職員会議で出ていたし、隣に具合の悪い人もいない。
「っ………」
「それに、痛いのは痛くしてるんだから当たり前だよ」
 視線すら合わせないで低く静かに送り出した声を怒っていると捉えたのか、彼女は表情を曇らせて腕から力を抜き、その痛みにじっと耐えることを決めたようだった。
 少し強めに縛り上げた両手首をベッドに横たわる彼女の頭の上へ固定し、包帯の端をベッドの柵に巻きつけて固く結ぶ。
「はい、できあがり」
 両手を頭の上にあげた状態で固定された美郷は少し動きづらそうに身をよじった。
「………陣ちゃん」
「ん?」
 それでも僕は、歪んだ望みを持って仰向けになった彼女をわざとらしく見下ろした。
「痛いよ………」
「うん、仕方ないよね」
「………でも、わたし、ホントに浮気なんっ……うぁっ、つ……」
 言いかけた彼女の手首を軽く掴む。包帯の柔らかくない生地にこすれて、赤く腫れたようなその肌をそっと撫でる。
「でも、こんなことされても嫌がらないのは、悪いことしてるって後ろめたい気持ちがあるからだろ?」
 ざらざらした感触と薬の匂いを指先で確かめるようにつまむと、その度に痛みを堪えながらも彼女は健気に、ただ僕への信義を貫くように見上げるだけだった。
「……ち、違う………よ」
「でも、普通の子はこんなことされたら、怒るよ?」
 二本の細い手首を片手で鷲掴みにする。今までとは比べ物にならない痛みに、痙攣しているような手を開いたり閉じたりしながら彼女は顔をゆがめた。
「ああ、ひょっとして」
 そのまま、少しずつ力を入れながら細い手首をまとめて握る。
「や、やだっ……じん、ちゃん、や、あ、あぁっ!」
 一際高い声が上がったところで、僕は手を離した。一瞬で安心したのか、美郷は痙攣したままの手をだらりとさせて、強張っていた体から一気に力を抜いた。顔は反射的に恐怖に引きつって、震える目尻からはぽろぽろと涙が零れていた。
「やっぱり、こういうのも好きなんだ?」
 必死に声を抑える際に口から溢れた涎を拭う。手の甲で火照った頬を優しく撫でると、荒かった呼吸がいくらか落ち着いたように聞こえた。
「ちが……う、よ」
「そんな声で"違う"って言われると、逆におねだりされてるみたい」
 ベッドのすぐ横にある丸椅子に腰掛けながらそういうと、彼女の顔がちょっと不安の色を出した。無理もない、また同じことをされるのかと怯えたんだろう。
「ねぇ、陣ちゃん………私本当になにもしてないんだよ?」
「じゃあ五日もの間、家にも帰らないでどこにいたの?美郷」
 矢継ぎ早に切り返した僕の質問に、美郷は答えに詰まって視線を逸らして応えなかった。
「学校でも意図的に僕を避けるし、挙句には倒れて保健室。御父様なんて心配のあまり昨日胃薬飲んでようやく寝てらしたぞ」
「それは………悪いと思ってる……けど」
「けど?」
 尻すぼみに小さくなってゆく言葉尻を溜息混じりにとらえる。
「………ごめん、なさい」
「それは御父様に言ってやりな」
「…………許しては、くれないの?」
「許さないよ」
「えっ?」
 きょとんとする顔に笑顔を返す。この一瞬で彼女が一体どんなことを想像してしまったのか、興味が沸いてまた"いじめたくなる"衝動に駆られた。
「だって美郷、もっとされるの嫌なことあるだろ?」
「………もしかして、アレ、するの?」
「アレって?一杯思いついちゃったけど、僕」
「その………前に陣ちゃんが、おなか……すーって」
「ああ、あれ。あれ、嫌いなんだ。美郷」
「え、えぇっ!?」
「分かった、やったげるね」
 そっと彼女の腹に手を添えると、くすぐったいのか肌がびくりと震えた。触れた制服はやわらかくて、ほのかにあたたかくて、思わず手が動いた。
「………ぁ」
「そうか、おなか触られるの、嫌いだったんだ」
 ゆっくりと円を描くように撫ぜると、その度に身をよじって甘い息が漏れる。
「や………やだよ……こんな、とこで」
「おなかはそう言ってないみたいよ」
 何か言われる前にへその辺りを軽く刺激してやると、今までより強い声を上げて彼女が鳴いた。
「………あ、う………やだよ……やめ、て」
「他の男も………こんなかわいい声出して、たぶらかしてた?」
「ち、ちが……よ、そんな、こと………」
 軽く笑って無理矢理視線を合わせると、彼女は逃げ場をなくしてなんともいえない顔をした。庇護をそそられ、被虐を掻き立てる瞳は痛みとは違う感情で潤みを湛えていた。
「ま、仕方ないよね。美郷だってお年頃だし、僕だけじゃ満足できないんでしょ?」
「ちがう……」
「違うの?」
「ほんとに………そんな、こと………してない、よ?」
「この期に及んで、まだそんなこというんだ」
 撫ぜまわした手で、きっちり最後まで留められたボタンの下の方をいくつか外す。気づいた美郷はなんとかしようと必死に身をよじったが、それも無駄だった。
「やっ、やだよっ!」
「相変わらず、きれいだね」
 美郷の懇願を無視して、覗いた隙間から見える綺麗な肌色をそっと撫でる。
「や、ふあ、あっ………や、いやっ……は……」
 少しでも動く度に、逐一ぴくりと肌が震えて声が漏れる。よほど敏感なのは、五日の間ずっと我慢してた証拠なんだけど、彼女はそれに気づいてない。
「こうやって五日も僕を放って、一人で気持ちよくなってたんでしょ?」
「ち、ちぁ……う………やっ………あ、あっ」
 つつ、と下腹を撫でると、その拍子に手首が千切れそうなほどベッドが軋む。息は熱く湿り気を帯びて、なぞる肌にはいつの間にかじんわりと汗が浮いていた。
 手首が痛んだのか、美郷は頑なに強張っていた体から力を抜いて、くたりとベッドに沈んだ。
「痛かった?…………それとも、気持ちよかった?」
 耳元で囁いて、そっと反対の手を細い手首に添える。絶対に跡になっているだろう辺りを軽く握る。
 美郷は一瞬とろりと呆けた顔で何かを呟いた後、また涙をぽろぽろとこぼし始めた。
「………もう、やだよぉ」
 小さくかすれた声に、ぞくりとするような表情に僕の口の端は歪んだ。彼女の手首をそっとつかむと、手首が過剰なほど僕を拒んだ。
「やっ、もう……いや」
「………もう痛くしない。解いたげるから………ちょっとだけ、いい?」
 自分の手で拭えずに零れ落ちてゆく涙を代わりに拭い、頬を撫でる。額にかかっていた前髪を払う。その手の感触を求めるように、彼女は鼻をすすって頬を摺り寄せた。
 今度はそっと手首を握って、結び目を解く。包帯の先がぱらりと落ちて、ベッドの下に垂れ下がった。
「………痛い?」
 当たり前の質問を改めてなぞるように問う。白い包帯の合間から徐々に現れる手首は、擦れてほとんどが軽い火傷痕のように真っ赤になっていた。
「こんなになるまで頑張っちゃって」
「………」
「まぁ、美郷が強情なのは昔からだしね………」
 嘘か本当かなんてそんなことは実際、彼女に会えた時点でどうでもよかった。彼女は嘘をついても、すぐに分かるからだ。仮に僕の作った疑いが本当であっても、彼女が僕を拒みさえしなければ、それでよかったのだ。
 僕は、美郷が自分を求めてくれる姿にひどく安堵していた。
「これほどしても言わないのは、初めてだけど」
 嫌味っぽく残して縛っていた包帯を解き終えると、やはり美郷の両腕には痣と呼んでも差し支えないほどの痕がくっきり残っていた。その細い手を、そっと握る。
 また拒まれるかと思っていたけど、美郷は一度鼻をすすってそのまま目を閉じた。
「………ごめんね、陣ちゃん」
「それはいいよ、今は………どういうわけでも、結局帰ってきてくれたわけだし」
 美郷が目を閉じていたのをいいことに頭を抱き寄せて、ゆっくり髪を梳くように撫でる。満たされるような匂いが鼻を掠めてゆく。
「陣ちゃん」
「ん?」
「あの、ね……その、さっき………おなか触られて」
「我慢、できない?」
 はっきり言うと美郷は俯いてしまい、熟れた林檎のように赤くなった。改めて手を伸ばすと触れた頬は熱っぽく、濡れているように吸い付く。
 震える彼女の切なげな息が手首にかかってこそばゆい。
「もう、いじわる………しないでね」
「いじわるなんて最初からしてないよ」
 丸椅子からベッドの端に座りなおす。腑に落ちないという美郷の顔が目の前にある。
「じゃ、さっきのは?」
「おしおき」
「………やっぱりいじわるだ」
「嫌なら帰ってからにするよ」
「………だめ」
 ちょっと強い口調で、美郷が僕の手首を握った。

―――

 やたらに丁寧な舌使いで生暖かい舌が僕の上を這う。くすぐったいのもこそばゆいのも、彼女とこういう関係になってから慣れた。
「美郷」
「うん?」
 肝心な時に呼び止められたのが心底残念そうな顔で、美郷が首を傾げる。
「僕のこと、好き?」
 僕の質問に美郷は軽く目を丸くして、さらに首を傾げた。
「………なんでそんなこと、聞くの?」
「あまりに飢えた顔してるから」
「そ、そんなことない……けど、五日ぶりだもん」
 口調とは裏腹、逸らした視線は耐え難い欲望に疼いて、震えていた。肩をつかむ指、たとえばそれだけで今の彼女の心は手に取るようにわかった。
「まあ、いいけどさ」
「大丈夫………陣ちゃんのこと、だいすきだよ」
 彼女特有の甘い香りが眩暈を誘う。一瞬で強い匂いとなった芳香に僕の体は痺れ、彼女の望むままゆっくりとベッドに沈んだ。
「陣ちゃん………いくよ?」
「どうぞ」
 彼女が決めた合図を境に、力を抜いた僕の首筋に鋭い痛みが走った。自分の肉が抉れる感触がして、貪る荒い息と流れ出る血を執拗に舐める音だけが、部屋には充満する。
 美郷は僕の両肩をしっかりと抱き、首筋に顔を埋めるとしばらく離さなかった。
「よっぽど、お腹すいてたんだ」
「ん………」
 痺れる腕でゆっくり髪を梳きながら背中をさすると、美郷は甘えるように声を漏らす。
 白い天井を仰ぎながら、流れ出してゆく血の喪失感を首筋から感じる。舐められているからそこは確かに暖かいけど、傷口を何度も撫でられるのを痛みより快感に感じるのはやはり普通の人からすれば異常なんだろう。
「っ………」
 快感から思わず身をよじると、それに気づいた美郷が面白いものでも見つけたように僕を見下ろす。面倒な表情に戻そうとするその一瞬は明らかに遅かったらしい。
「………可愛いんだ、陣ちゃん」
 僕の血で真赤になった口の端を吊り上げて笑う様は、既に"魅了"だった。
 体中の痺れがさらに増してゆく。意識ももう、強い匂いではっきりしない。
「陣ちゃん、ごめんね………今日、これじゃ………足りないの」
 そう言って、蕩かされた甘い声がゆっくり首筋に荒く切なげな息と共に絡む。意識が飛びそうなのを必死に堪えながら、僕はただ彼女の舌の動くままに蹂躙されていた。
「もっと………ちょうだい……」
 強い匂いに頭の中が芯から外れたような感じでぼやける。舌が傷口の中までねじ込まれるように感じた瞬間。
「あ、く………う、ぁっ」
 全身に凶悪な衝撃を受けて、僕は意識を失った。

―――

「わたし、やっぱり陣ちゃんのじゃないと、ダメみたい」
 洗面台でうがいを済ませて、タオルを片手に戻ってきた美郷は僕にそう言った。今までにない激しい吸われ方をされて、僕のほうは目が覚めてもまだベッドから起き上がれずにいた。情けないけどおそらく貧血だ。
「様子がおかしいから、もしかしたらと思ったけど、やっぱり他で補給してたんだ」
「………陣ちゃんと他の人のとはどう違うのかなって思って、お願いして分けてもらったんだけど………ほら、やっぱり学校だとバレた時に問題になったりするから………泊めてもらったりして」
 バツが悪そうに、途切れ途切れに話す美郷の言葉には申し訳なさが含まれていた。
「五日間の失踪の原因は、それか」
 いつかはやるだろう、と思っていたから僕は全然気にしなかった。それどころか、それを聞いて僕は少し安心さえしていた。
 僕が彼女と特別な関係でいられるのは、僕が彼女のエサだからという理由だけだ。他で代わりが利くなら、彼女は本能に従ってもっと美味しいエサを探すはずだ。
「でも、しっくりは来なかったんだろ」
「うん、どうしても苦すぎて飲めなくて………どうしてなんだろう、陣ちゃんの血だけすごく甘くて美味しいの」
「そりゃ………僕が御父様の"特製"だからだろ?」
 気を抜けばすぐにふらつきそうになる体をなんとか起き上がらせる。そろそろ保険医も戻ってくる。
「でも、御父様は好き嫌いしないよ?」
「多分、そういう問題じゃないんじゃないかな……」
 美郷が言いたいのはおそらく、子供がビールを苦いと思うのに似ているのではないかと僕は勝手に思っている。そもそも血の味に明確な優劣を感じられるほうが異常なのだ。
「でも、陣ちゃんがこんなにヤキモチ妬くとは思わなかったな」
「ヤキモチじゃなくて、シンパイだよ」
「………シンパイ?」
 首をかしげた美郷の頭を軽く撫でる。
「シンパイ」
「それでも、やっぱり私は陣ちゃんがいいな」
「そうですか………」
「大丈夫、ずっと一緒にいてもらうもん」
「…………」
「え?」
「………よく恥ずかしいことをそう、平気で言えるね」
「う……」
 おそらく、御父様も「変なエサ払い」のために僕を一時的な美郷の"エサ"にしたと思うけど、当時の僕はそれをむしろ受け入れたといってもよかった。どんな形であれ、美郷の傍らにいて彼女を助けることができるなら、それも悪くないと思ったからだ。
「さ、先に行ってるよ」
「はいはい」
 保健室を出て行く後姿を見送って、一人しんとした教室に取り残される。
「………シンパイですよ」
 そうだ。僕は、いつでも不安にさいなまれる。
 いつ"餌"の役目を解かれるか、いつ君の必要に応えられなくなるか。
 君が絶対に戻ってきてくれるなんて自信は、僕は絶対に持てないから。
「陣ちゃん?」
 しばらく固まっていると、保健室の入り口から愛しい人の顔が覗いた。

「今行きますよ…………"お嬢様"」




―おまけ―




「あ、それと」
「なにか?」
「あっちの"続き"は、帰ってからね」
「………はい」


[終]