「解舒の影」




 闇とは、一種の心理装置だ。
 ただ一切の暗闇であるよりも、朧げに視界の利く方が人は安心する。少しでも視力が利けば、人は目から入る情報力をスッパリ諦められない。だから暗闇を恐怖する。極端に情報量が低下することに、慣れていないからだ。
 しかし、その情報力は時として「見たくない事実」さえもを拾う。
 いっそこの部屋が最初から真っ暗闇であったらとさえ、願うくらいの事実を。


「…………ん」
 暗闇の少し手前、ベッドに横たわっていた少女が寝返りを打った。
 ………そろそろか。
 僕は本から目を上げて、文字をなぞる手をとめた。
 部屋には一点を除いて暗闇が敷き詰めてある。自分が座る目の前、テーブルの中央にはランタンの細い明かりが儚げに揺れていた。
 本を置いて立ち上がる。椅子が足元のカーペットに擦れて、嫌な音がした。
 大体午後九時過ぎ、少し水の饐えた匂いが外からする。外は雨だろう。そういえば、彼女を運んできた旧友の萩原も、少し前髪が濡れていた。
 僕は足音も立てず、影のように彼女の眠るベッドに脇に立った。部屋がほとんど密閉されているためか雨のせいで確かに湿気は高くなり、居心地は悪くなっていた。
 寝ている時でさえそういった感覚の過敏なものが、目の前の彼女、ということになる。
 僕は一度、そっとその額を撫でた。少し汗ばんだ額に、穏やかな熱が篭もっている。
「………起きてください、お嬢様」
「うん………?」
 いつもと少し違う目覚めに、それでも彼女は寝ぼけたままで応じた。
「珈琲がよろしいですか、紅茶になさいますか」
「こうちゃ………」
「かしこまりました」
 僕は椅子から立ち上がって部屋の数少ない調度品の古びた棚まで歩くと、そこから白い陶器の古びたティーカップを二つ、指に引き寄せた。
 カップの内と外に庭園を模した赤の薔薇があしらわれていて、人伝には大層な代物と聞いている。年代はそれなりに経ていて古めかしいが、それ故に味が出る。
 あらかじめ沸かしておいて冷めかけた薬缶の水を、再びかまどの上に掛けた。
「気分はいかがです?」
「………ここは?」
 ようやく眼が覚めたらしい彼女は、目を擦り擦り、目の前の状況を把握しようと努め………そして急に、目の前の状況が明らかに異質なことに気付いた。目がせわしなく、か細い灯りにのみ守られた、暗闇の部屋を右往左往する。
「ここ、どこ………あなた、誰?」
 突き刺さるような端的で鋭い言葉に、僕は振り向いた。心配させないようにと自分でもうさんくさいと思うほどの笑顔も忘れない。
「はい。それも合わせて説明は後ほど。今紅茶をお淹れしますから、お掛けになってお待ちください」
 僕の笑顔を差し迫っての害意はないと踏んだのか、彼女はおそるおそる寝ていたベッドから降りた。お転婆を通り越して粗暴と噂の立つ少女と聞いていたが、初対面の相手にそれを隠すだけの器量はさすがに持ち合わせていたらしい。
 彼女は椅子には掛けずにベッドに腰を落ち着けると、身に着けていた制服のリボンやらスカートの裾など、細かいところを直しはじめた。街の中央辺りに新たに出来た女学院の物だったと記憶している。
「鏡台が確かそっちの方にありますから、気になるのでしたら是非お使いください」
「…………」
 彼女は心中を幾分か読まれて少し怒ったような驚いたような表情を浮かべ、僕に警戒を抱きながら鏡台のある方向へ歩いていった。
「ところで、萩原はどうしたの?」
「萩原様ならお出掛けになりました。大旦那様からの直々のご用件があるとかで」
 互いに顔は合わせず、互いにそれぞれのことをしながら僕らは会話を繋げる。
「御付き失格ね。あの莫迦ときたら、見知らぬ男がいるこんな粗末で汚い部屋に私を預けてゆくなんて………私より六つも上の癖に、そんなこともわからないんだわ」
 早く、低く、呟きに近い彼女の声に、僕は口の端を少しだけ歪めた。ふてぶてしいまでの皮肉は、こっちの出方を伺っているようにも聞こえる。
「なんでも緊急に向かわなければならないところがあったそうで、お嬢様を連れて行かれるには少し物騒と言うことで、こちらで」
 沸騰する手前の湯をかまどから取り上げ、一度外す。
 僕が振り向いた時には、彼女は既に鏡の前から椅子に腰掛けて、此方を品定めするような目で観察していた。
 しばらく興味の対象に晒されながら、僕はなんとか紅茶を彼女の前に運んだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
 彼女が一口、赤彩色の液体を啜るのを見てから、自分も正面に腰掛けた。
 一言で言うならば、可憐。口を閉ざし味を愉しもうとしている表情は、同年の娘ではこうはいかない。良家ならではと言えないことも無い。
 だが、奥ゆかしさを伺わせる一枚目の裏に潜む二枚目の裏は………。
「そういえば、あなた、萩原の知り合いなの?」
 僕の思考は彼女の興味に遮られた。両肘を机について、絡めた両手でその細工のような細い顎を支えていた。
「旧知………というには少しおこがましいかも知れませんが、高等中学の同級でした」
「あら、あなた高等中学なんて出てるの」
 少し意外と思ったのが顔に出ている。そうは見えなかったらしい。
「家庭の事情で中退しました。それに、成績もあまり良くはありませんでしたしね」
「そういうことを言ったんじゃないわ。もっと若いかと思ってたの。とても萩原と同い年には見えないから」
「未だに子供のようだとよく言われます」
「大変なのね」
「お気遣い、痛み入ります」
 他人事のように、あくまで見下ろすような言い方に、僕は一度うなずいた。
 実際、中学もロクに出ていない男の身上話などどうでもよいのだろう。彼女が欲しているのは退屈をしのぐためのたわいない、一時の面白い話だ。
 とはいえ、そういう話のほうが事欠かないのが世の常なのだが。
「まあ、そんな湿っぽい話は置いておきましょう」
 微かな灯りに細い湯気のくゆるティーカップをゆっくりとつかむ。薄い影がテーブルの上で伸び、その端が乗り切らずに闇の中へ溶けた。
 一瞬、彼女の体がぴくりと強張った。猫が本能的に危険を察知するように、彼女もまた何かを感じたのかも知れない。
「………今度は何か、愉しいお話でもしてくださるのかしら?」
 幾分か、緊張した声が僕を挑発する。声がうわずらないのは、場数を踏んでいる証拠だろう。それなりにこういう場にも慣れていると見える。
 僕は久々に、本当の笑顔を以ってそれに応えた。
「いいえ、今度は底なしの暗い話を、お嬢様」
 目の前の少女は高みから嘲笑うように鼻で笑い、片肘を残してそこに気だるげに頬を載せた。
「底なしに暗い話………」
「聞いてみてのお楽しみです」
 ややもったいぶってみて反応を煽る。侮辱されたかのように彼女は憮然として、その鋭い眼で続きを促した。
「まずは、この部屋にはなんで時計と窓が無いのか、という話です」
「時計と、窓?」
 言われてみれば、と彼女が部屋を見渡す。暗い闇の向こうにそれらしきものが無いのを確認して、彼女は物語に戻ってきた。
「それが、暗い話とどう結びつくの?」
「まあ、話はここからです」
 急かす彼女を置いて僕はゆっくりと立ち上がり、少し近づいてテーブルに手を付いた。
「ところでお嬢様。今何時位か、お分かりですか」
「持って回った言い方ね。当然、分からないわ」
 話の筋がはぐらかされすぎて、少し苛立ち紛れの返答が返ってきた。
「その通りです。この部屋では一切の時間が分からないようになっておりまして、ここで日々を暮らそうものなら、気が狂うと言われています」
「そこで暮らしている貴方が生粋の変人、というのが底抜けに暗い話なの?むしろ御目出度くてステキだわ」
「回りくどく話が長い変人というのは当たっておりますが、正解はまだ先です」
 徐々に棘を帯びる言葉を嫌味な笑顔で返すのはなんとも気持ちがいい。
「いい加減にして頂戴、さっきから不愉快だわ、あなた」
「そうですか、それは良かった」
「え?」
「………そういえば、お嬢様」
 会話が繋がらなくなったところで、僕は声のトーンを落とした。
「今の御自身のお立場、ご理解いただけておりますでしょうか?」
「………どういう」
 声が、途中で暗闇に消えた。顔が凍りついたまま、僕から離れない。
何を考えているのか、僕はあえて問わなかった。性格はともかく、女学院に通う彼女のことだ、今見える状況、知りうる知識を組み合わせながら、色々な可能性を考えているに違いない。
 おそらく、彼女は現実には起こりえない最悪の可能性でさえもを考え、要らない恐怖をその身に感じている。
 恐怖の体現はそこにある。
 一寸先は闇。けれど、近くに光が無ければ人は闇の中に崩れ落ちる。
 僕は一歩、彼女に歩み寄った。彼女は弾かれたように立ち上がり、首を振りながら後ずさった。
「わっ…………私になにかしたら、お爺様が黙ってないわ!」
 一般人なら怯むだろうセリフも、変人の僕にはひとくつまらなく聞こえた。
 あえて何も返さず、ちろちろと囲炉裏の残り火のようになったテーブルの灯りを見つめる。風の流れも無く息の詰まるような室内では、心地よいほどの不気味な沈黙が部屋を侵食しはじめていた。
 長い沈黙の中で、僕は一度だけ彼女を見た。
 視線が噛み合って、無理に息を殺したような声が背後の暗闇へ後ずさる。もう、姿も殆んど見えない。
「………これが、澤口の大旦那様のお言いつけでも、ですか?」
「そ……そんな出任せ、信じると思う?」
「自分の胸に手を当ててお考えになっても、全く心当たりが無いと」
「当たり前じゃない!私が何をしたって言うの?」
 僕は溜息と共に、足元へ視線を落とした。一瞬、自分の影が消え、くすんできた光の色は闇に溶け始めている。
「それを気付かせるために、私のような者にお声が掛かったのです」
「…………それじゃ」
「はい、萩原と同級というのは本当ですが、用事があるというのは、嘘です」
「嘘よ………萩原が、私を裏切ったとでも?」
「貴女を頼む、と親の仇のように睨み付けて預けて行かれました。可哀相に、大旦那様のご命令とはいえ、彼は貴女を裏切」
「やめなさいッ!そんな嘘ッ!」
 震えた声が、部屋を裂いた。再び降りる沈黙に、僕は目を閉じた。
「聞きたくなくても、これが事実です。貴女さえもう少しお淑やかであられたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに」
 それが本当だろうと嘘だろうと、もう僕の言葉はたいした信頼性は持っていない。だが、彼女は僕の言葉をほぼ、残酷な事実として受け止め始めていた。
 揺らいだ心を陥とすのは容易く、そしてその哀れな様は、一種の麻薬に近いものを持っている。
 僕はテーブルの傍を離れた。彼女が消えた暗闇へ一歩踏み出そうとした瞬間。
 何かが肩を掠め、背後の壁で四散した。破砕音からして、ベッドサイドにあった水差しか何かだろうと思われた。
「来ないで」
 怯えを含む、酷く狂気的な声が目の前からした。
「つ、次は、刃物を投げるわ」
「どうぞ」
「ホントよ?ホントに投げるわよッ!」
 絶叫に近い涙声が部屋に響いた。僕は、彼女を追い詰めるためにもう一歩、距離をつめた。
「お嬢様のお好きなようになさって下さい」
 魔が差した類の「一瞬の怒り」に任せて投げられた灰皿を、僕はかわした。灰皿はテーブルの足に当たり、床へ硬い音が響く。
「なんで………」
 そのまま避けなければ、直撃だったのに。そんな愕然とした声だった。
「すいませんね、こんな部屋に住んでいると大体『分かる』んですよ。見えなくても」
「…………なんなのよ、あなた!」
「申し遅れました。私は渡世と申します。澤口の大旦那様より依頼を受けまして、お嬢様が今までの振る舞いを省み、分別を弁えて澤口の名に恥じぬような立派な令嬢にして欲しい、と仰せつかりました。よろしくお願い致します」
「冗談じゃないわ!」
「冗談で言えたら、それはそれで凄いことだと思います」
「ふざけないでッ!」
 苦し紛れに投げた三発目の万年筆も、空を切って床に落ちた。興奮で息が切れた彼女の方をあえて向き、僕は暗闇に向かって微笑んだ。
「まあ、今までの話を信じるかどうかは貴女次第です。どういう理由を付け加えたとしても、これから起こることが変わるわけではありませんから………」
 独り言のように言って、僕はテーブルに視線を戻す。ほとんど消えたようなランタンの灯りはどことなく、必死で闇に隠れようとする彼女に似ていた。
 そして、灯りは残り滓のような油を溶かしてゆき、ついに消えた。
 僕は闇に溶け、彼女は隠れ蓑にしていた闇に、呑まれた。
 彼女には、絶対にかなわない相手が世界に居るということを思い知らせるか、自分が思っている完璧な理想への道筋を、何らかの屈辱によって一時でも鎖すか。
 平たく言うなら、凝り固まったプライドを少しでも欠けさせれば僕のひとまずの仕事は終わりだった。
「それでは改めまして………ようこそ、渡世の部屋へ」
「ッ」
 私は彼女の目の前に立ち、胸元で控えめに結ばれた赤いリボンの結び目を解いた。突きつけられた現実に濁り始める瞳を覗き込む。
「さすがご令嬢、いい目の色をしていらっしゃる」
「………や………いや………」
 ようやく自身に降りかかる事の重大さに気付いた彼女の表情は混乱と、驚愕に揺さぶられて半ばパニックに彩られていた。
 頭を振り、得体の知れない物でも見るような目付きで、彼女は私を見上げる。
 私はあからさまに作ったと分かる笑顔でその頬に触れた。震えがひどくなり、手に掛かる微弱な呼吸が不規則に揺れるのが分かる。
 溢れ出した不安が、彼女の目から零れ落ちて私の手を濡らした。私を見上げた瞳は怯えにほどよく濁りきって、正気と抵抗の色を失っていた。
「怖がらなくても、大丈夫ですよ」
 頬に触れたのとは反対の手で、僕はリボンを床に落とした。


「………立派な淑女に、仕立てて差し上げますから」


[終]