「これは、当分止みそうにありませんね」
窓の外を見やり、私はぼんやりと言った。
叩きつける雨は木々が年輪を重ねるかの如く、縞がうねるように硝子の上を走る。打ち据えるように雷鳴が光と共に窓を彩ると、背後に感じる小さな背中が息の詰まるような促音を残して、小さく震えた。
「………怖い、ですか」
答えはなく、代わりに彼女は黙って息を潜めた。
自分に意識が集中されるのを避けるかのように、彼女の雰囲気はモノを装うようにして私を拒絶しているのが分かる。縮こまっているのも、単に雷や暗闇だけではなく「私が怖いから」というのもあるだろう。
こちらも敢えて積極的に話題を振らないようにはしているが、会話がない息苦しさと長時間の沈黙には耐えられず、私は時折独り言のように反応のない会話を試みては気を紛らわせていた。答えはないものの、彼女も恐怖相手に一人ではいられないらしく、精一杯の譲歩で背中を私に預けているのがせめてもの救いだった。
「………」
急に振り出した雨は、私たちを家に戻させる時間を与えなかった。逃げるように森へと入った私たちの前に現れたこの粗末な小屋は、おそらく誰かが捨てて行った古い空き家だと思われた。
薪もなく、灯りもない部屋は夏を手前にして冷やかに、梅雨の湿り気を帯びた空気は濡れた肌を蝕むように包み込んでいる。
雨に打たれ、部屋に吊るされた私の外套と彼女の服はまだ雫を落していた。
まだ、ここから出られることはできないらしい。
雷鳴が檻の柵のように降り注ぎ、彼女が耳を塞いだ。下着だけでは風邪を引く、と無理矢理に貸した廉価のワイシャツが、こそこそと彼女の様子を囁いてくれる。
かすかに動くたび、私の背中を湿り気を帯びた長い黒髪がくすぐる。
ふとすれば雨に溶かされた甘い匂いが漂うのを鼻に感じ、私は息を吐いた。
ここにいても埒が明かないのは自明の理だ。
このまま夜を明かすことにでもなろうものなら、確実に二人とも体が参ってしまう。
「お嬢さん」
「………」
相変わらず返事はないが、構っていることはなかった。
「お嬢さん、私はこれから本邸まで行って………」
着替えを走って取ってくる、と言う前に私は立ち上がろうとしたその背を元に戻した。
先ほどとは違って、お嬢さんの体が全面的に私の背に寄りかかっている。
「………お嬢さん?」
ある可能性が頭を掠めて、私はすぐに背を引き離した。
背もたれがなくなり、倒れてきたお嬢さんを抱きとめる。
「お嬢さん」
一にも二もなく、額に手を充てる。予想していたより、熱くはなかった。
飛び込んできた彼女は静かに寝息を立てていた。
「………取り越し苦労か」
風邪でも引いて熱が上がってしまったのかと思ったが、どうやらただ疲れて寝てしまっただけらしい。
「にしても………」
私は罪悪感が先に立ち、ついと彼女から顔を逸らして、肩の辺りを二、三度揺すった。いつもは白く陶磁を思わせるような肌が雨のせいか、少し吸い付くように柔らかい感触を受けた。
「お嬢さん、こんなところで寝たら風邪を引きます」
「ん………んぅ……」
ぐずるような細い声を漏らして、彼女は一向に起きる気配を示さなかった。
起きたら起きたで、また非難に満ちた目でこちらを見上げるのは容易に想像がついたが、風邪を引かれては叶わなかった。
何度か軽めに揺すってみても、彼女はついに反応を示さなくなった。
「お嬢さん」
今度は少し強めに言うと、いやいやをするように肩にあった私の手を払おうとしてつかみ、そこで現実に気付いてゆっくり目を開いた。
「お嬢さん、目が覚めましたか」
「………」
「ここで寝てはいけません。風邪を引きますよ」
「………」
まだぼんやりとしているのか、彼女は私に焦点を合わせたままぽつり。
「お父様に聞いてはいましたけど…………」
「はい?」
「本当に、御堅い方なのですね」
「な…………」
私は彼女の言葉に二の句が告げず、文字通り絶句した。
馬鹿にされた、と思うより前に視線を合わせた彼女は文字通り「してやったり」と言わんばかりの笑顔だった。儚げに淑やかであった印象は残りつつ、そこには別の物が浮かんでいる。お転婆と言う印象を持ったのは、これが初めてだった。
「………少し、安心しましたわ」
「あのですね…………」
胸を撫で下ろすように私の手を取った彼女に、私は額を押さえた。計算高い、とは言わないが、おそらく寝たふりして私を試していたのだろう。雷に耳を押さえていたのも、おそらく演技の一つ、と考えられなくもない。
「家の都合とは言っても、一生を共にする方ですから………どのような方か、実際に見ておきたかったのです」
「私はそれだけお元気で安心しました」
やれやれと溜息を吐いて、わたしはそもそもの本題を思い出した。
「さて、お嬢さ―――」
刹那、雷光が窓を白に染めた。
近場に落雷したのではないかと思えるほどの空を割るような轟音に、彼女の悲鳴が重なる。
「…………」
どうやらこちらは本当だったらしい。
所在なさげに耳だけを塞いで震える彼女は私に助けを求めたものの、やはり男の胸に飛び込めるだけの度胸はないらしい。
私は干してあった生乾きの外套を直に羽織り、そのまま強引に彼女の体を抱き寄せた。
「失礼」
すぐ傍で、息の詰まるような促音が耳をくすぐった。
引き寄せた甘い石鹸の匂いは、先ほど自分が抱いていた黒い感情とは明らかに違うものを呼び起こす。強いて言えば、許されたという安堵に似ていた。
「あ、あの………」
「嫌でなかったら………せめて、雨が止むまで」
眠気に似た空気に身をゆだねるように、私は彼女の肩に軽く唇を充て、外套で彼女を覆い隠した。
「…………はい」
深い息も、放たれた言葉も、今は雨の音に消える。
部屋を支配する深い沈黙の底で、私はただ温もりを抱いた。
[終]