「幽翠の庭」




 唐突に降りだした雨は、あれほどうるさかった蝉の声を森の奥へと押し込めてしまっていた。細かく衣の擦れる音が、微かに聞こえる虫と雨の音に引き立てられるようにして、やたらに大きく感じる。
 一瞬何が起こったのか分からず、少女は一度、私の懐中で拒絶するように跳ねた。
「やっ………」
 縁側に座して抱き合う形になった私をなんとか放そうと、少女は足に力を入れて、後ろへ退こうとする。それでも、室内暮らしで弱りきった体はそう簡単に私の腕中から抜け出すことはできなかった。
「っ………」
「先ほど、好きにしろと豪勢に啖呵を切ったのはどちらだったかな」
「そ、それは………」
 私が卑屈に顔を歪めると、憎悪と嫌悪が綯い交ぜになったものが彼女の視線の端に宿る。だが、間近で私を直に見ることもできずに視線は逸らされ、続けて何か言おうとして言葉にならないまま唇が震えていた。
「………こうなることに、予想がつかなかったのか」
 少しの沈黙の後、彼女は戸惑ったように顔を上げて、私を見た。
「だ、だって、あなたは………あなたにはもう」
「言うな」
 腕に少し力を込めれば、脆弱な背中の痛みを堪える分、彼女の口から縺れたような息が漏れた。襟元を少し肌蹴させ、首筋に絡まるように残っていた先ほどの湯浴みの火照りを舌で掬い上げる。
「はぅっ」
 ただの条件反射か、伸びあがる様に背を反らして、彼女が鳴いた。
「気持ちいいか」
 わざと甲高い水音をさせて丁寧に舐めあげれば、首筋を震わせながら彼女の体がこわばってゆくのを体の中に感じる。
「あっ………う……ふぅ………」
 開け放たれた窓から湿ったぬるい風が、ぼんやりと私達を包み込んだ。乾いたはずの汗は、またどこからか熱を帯びて噴き出してくる。
「………怖いか?」
 あやすように、回した腕で白い布地を撫れば、病的に白い肌には徐々に赤みが増していた。強く握られた彼女の手が私の胸の辺りを一度、二度、揺れるたびに叩く。
「…………」
 間断を挟みながら短く漏れる切なげな息と、食むように首筋を貪る音。
 雨は外の音を断ち、霞に濡れた森は静かにその姿を溶かしにかかる。混ざり合うように程よく淡い翠色へと色を変えた森からは、訪れる者も、私達を遮るものも、なかった。
 少しして、彼女の腕が力なく垂れ、私はその首筋から顔を離した。慣れない感覚と体力に冴のない体は、私が回した腕に少しよりかかるようにして、その身を預ける。
 下を向いた顎を少し強引に引き上げ、なぞるように、頬を撫でる。
「………あの時は私を棄ておいて、なぜ、今更なのです」
 彼女は眼を閉じて、私の手にそっと手を重ねた。少し落ち着き、浅くなだらかに上下する呼吸と頬の温かさを、その掌に感じる。
「残酷とは、思いませんか」
「忘れたければ、一夜の悪夢とでも、そう思え」
 言っていることが、していることが、人としての道を外しているのも知っている。
 それでももう、私はこの手前に踏みとどまることはできなかった。
 頬に私の手を宛てたまま眼を開かない彼女に軽く唇を重ね、離した手で腰を、もう片方でうなじを抱いて、ゆっくりと体重をかけてゆく。
 硬い縁側の木床に寝転がった所で、ようやく彼女が眼を開いた。
 何かを受け入れたような眼の色が、ひどく扇情的に私を見あげる。

「――――もう忘れたいと、そう思っていたのに」

 微かに呟かれたのは、芯の通る透き通った言葉。
 願いのように放たれたそれに、私も「人でなし」らしく、口の端をゆがめた。
 見上げる瞳をまっすぐに捉えて、私はただ、心のうちより湧き上がるどす黒い意志で見つめ返していた。
 音のない森にはただ、全てを覆い隠すようなひどく曖昧な色の布帛が張り巡らされている。風もなく、甘ったるいような香りに淀んだ空気が頭をぼやかしていた。

「一夜の悪夢とでも、そう思え」

 出口を遮られた夏の縁側で、私はただ、彼女を貪った。



[終]